第百三話 どうしても、失くしたくない女の子

今野こんのは、内心でじりじりするほどの欲情を感じながら、それでも自分をいましめた。そしてわざとゆっくりと、松ヶ峰家まつがみねけの巨大なベッドにおとなしく座る藤島環ふじしまたまきにコーヒーカップを手わたす。


「熱いから。気をつけて」

「はい…あ、おいしい」


環はこくりと一口コーヒーを飲み、ほのぼのと笑った。今野は、環のこういう顔を見るともう無性むしょうに幸せになる。

つい今朝まで、微塵みじんも知らなかった幸せだ。

今野は環の隣にすわり、そっと片手で環の髪の毛をかき上げてやる。指先で触れると、環のボブスタイルの毛先はひんやりしていた。


「まだ、ちょっと濡れてる。シャワーに入っちゃったんだな」

「着替えたかったので」

「そのままベッドにいても良かったのに」


今野が言うと、環はコーヒーカップを両手で持ったまま、もじもじした。


「だって…あの…シーツも取りかえなくちゃいけなかったし」

「シーツ?環ちゃん、けっこう潔癖症なの?」


この子については、こういう小さいことからおぼえていかないとな、と思いつつ今野は尋ねた。環は真っ赤になりながらさらにうつむき、小声で答えた。


「そうじゃなくて…汚しましたし」

「汗?」


そう言ってから、今野ははっとした。


「あ…」


今野の声に、環はますます赤くなる。

その初々ういういしい反応を見て、今野は自分がやったことの大きさに、はじめて愕然とした


女の子にとって、ヴァージンでなくなるというのはただ経験をした、と言うこととは違う。生まれて初めて男の身体を体内に受け入れるということは、痛みと衝撃をともなうことだ。

そして環は、ついさっき今野の身体の熱とともにその痛みと衝撃をくぐり抜け、シーツに使を残したばかり。


ごくっと、今野の咽喉のどが鳴った。

環が自分のために払った代償の大きさに圧倒されそうになる。

同時に、藤島環のカレシになると言うことが急に大きく感じられて、今野はおじけづいた。

逃げ出したい。

でも、ここで今野が逃げ出したら、環は二度と手に入らないだろう。


今野が逃げ出すことについては、環は何も責めないような気がする。

そのかわり、環はたとえ一度であっても自分の目の前でおじけづき、現実に立ち向かわなかった男を決して許さないはずだ。

もし今野がもう一度やり直したいとねがっても、環はおだやかに笑いながら厳然として願いをしりぞけるだろう。


今野の身体に、初めての戦慄が走った。

いま、今野の隣でほんわりと微笑みつつ、熱いコーヒーをゆっくり飲んでいる女の子は、今野がどうしてもくしたくないと思っている女の子だった。

だとしたら、今野はここで戦わねばならない。

おじけづき尻尾を巻いて逃げ出したいと思っている自分自身と、戦わねばならない。


今野はクイーンサイズのベッドに上がりこみ、コーヒーを飲んでいる環をそっと背後から抱きしめた。

環が少しだけ振り返る。


「今野さん?」

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