第百四話 子音ひとつの過ちもないように

今野こんのは、目の前にある藤島環ふじしまたまきの首に唇をつけた。そのまま小さな貝殻かいがらのような耳までキスでたどりあげ、ささやいた。


「環ちゃん。身体は痛くない?」

「…はい」

「ごめん。俺、途中からおさえがかなくなっていたよな」


環の首筋が赤くなる。今野は下腹の奥からじんわりとにじみ出す温かさを感じた。

この子がすきだ。

すげえ、好きだ。

今野は環の身体を動かして自分のほうを向かせた。若い女性らしい柔らかな頬を両手で包み、


「あのさ、いま俺がこういうことを言っても、君は本気にしないかもしれないけど。一言だけいわせてよ」


今野は環の優しげな眼をじっと見た。一言一言ひとことひとことをていねいに、子音しおんひとつのあやまちもないようにして、しゃべった。


「きみを、大事にさせてくれ」

「だいじ?」


環は小鳥が飼い主を見るような角度で今野を見上げた。今野は自分の中の愛情をもてあまし、仕方なく笑う。


「大切にしたいんだ。君を泣かせたくないし、もう二度と痛い目に合わせたくない。君を、まもりたい」


そう言って、今野はしっかりと環を抱きしめた。

柔らかく温かい、もう少女でなくなった環の身体が今野の腕の中にあった。幸せを呼ぶやさしい体温が今野をちからづけている。


「俺のいれたコーヒー、うまい?」


こくんと環がうなずく。


「おいしいです。でもちょっと、濃いかも」

「そんな気がしていたんだ。砂糖があるよ、使う?」


そう言うと今野はしぶしぶ身体を環からはなして、ベッドから降りてテーブルに近づいた。

まだたっぷりとコーヒーが残っているガラスサーバーの横に、一階のサンルームから持ってきたスティックの砂糖が置いてある。


今野は砂糖を手に取り、自分もコーヒーをつごうとしてふと、アンティークらしいテーブルの上に腕時計を見つけた。

なんもなしに時計を取り上げる。

時計を一瞥いちべつしたあと、今野の中にどうしようもない疑念と怒りが沸き上がってきた。


「なんだよ、この時計」


ベッドの上でおとなしくコーヒーを飲んでいた環が、今野の声のとがり方に驚いて、こちらを見た。

今野はスティックの砂糖を握りしめたまま、環に大ぶりの腕時計をかかげて見せた。


「なんで環ちゃんの部屋に、男物おとこものの腕時計が置いてあるんだよ―――まさかさとしさんのか?」

「あ、それはサト兄さんのではなくて…いえ、サト兄さんの物かもしれませんけど」

歯切はぎれの悪い言い方だな」


今野はくしゃくしゃになったスティックの砂糖をテーブルに放り出し、腕時計をいまいましそうに持ちながらベッドの環に迫った。


「聡さんのものなのか、それとも別の男のものか。どっちみち腹が立つよ、なぜ男の時計が君の机の上に大事そうに置いてあるんだよ」

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