第九十六話 麒麟も自由に空を飛べる
美貌のホテルマン・
「ええ。いずれ、
「三十年……」
聡は思わず、つぶやいた。
「そんなに、待てねえよ」
「
「だって井上さん、今から三十年たてば俺なんて五十七才ですよ。それほどは、待てません」
「三十年が待てないほど、この麒麟に
井上は深い
深い、深い
昨夜の井上が、コルヌイエホテルのスイートルームの前で、つぶやいた一言とよく似た
あの時、井上は何と言ったのだったか。
聡は消えていきそうな記憶をさぐった。
そうだ。あのとき井上は、井上をあっさりと捨ててスイートルームの奥へ入ってしまった女性の名前を呼んでいたのだ。
『おやすみ、さえ』と。
さえ。
おそらくそれが、井上の最愛の女性の名だろう。
このひとなら、と聡はふいに思った。
この人になら、おれの欲情のはしっこを見せても悪くはないだろう。きっと黙って受け止めてくれるはずだ。
一生に一度の恋を、死ぬまで隠し通す覚悟をもっている男なら。
聡の恋も笑わないはずだ。
聡は麒麟の像を見上げて、井上に話しはじめた。
「俺には、好きなやつがいましてね」
聡の突然の告白を、井上は端正な顔をピクリともさせずに、ホテルマンらしいすっきりした立ち姿のままで聞いていた。
「そいつは高校を卒業してから名古屋を出て、東京へ行きました。どうも、その後ろには俺のおふくろの
そして帰ってくるたびにひどい顔になっていった。鼻がとがって、目元がどんどん暗くなって。
だから俺は、もういっそ名古屋へ戻ってきたらいいと言ったんです」
あのころの音也の顔つきを思いだすと、聡は今でも胸を締め付けられるような気持になる。
もともと
それは、おそらく聡の母・紀沙へ定期報告をするためだったのだ、と今の聡ならわかる。
聡の母が、音也のスポンサーだったからだ。
紀沙は、いずれ息子のための汚れ仕事をさせるべく、大金を費やして楠音也を若い選挙参謀に仕立てあげたのだ。
松ヶ峰紀沙と言う女は、たった一人の息子のために平気でそれだけの手を打てる女だった。
そして音也は、紀沙の意向に
なぜだ。
なぜ音也は、あれほどつらそうな顔をしながらそれでも聡の母の命令に従ったのか。
そこにあったのは、カネ、というわかりやすい理由だけだったのか。
聡は、音也が東京でつらい気持ちになるたびに通ったと言う、日本橋の麒麟像をあらためて見つめた。
ブロンズの麒麟像はほんのりと温かいが、どれだけ聡がたずねても答えをくれない。
ただ、初夏の午後の温みをぼんやりと聡の手のひらに伝えて来るばかりだ。
聡がもう一度つぶやく。
「俺が何を言っても、あいつは名古屋へ戻ってこなかった。まるで、なにかにおびえているかのようだった。あれはいったい……なんだったんだ?」
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