第九十六話 麒麟も自由に空を飛べる

美貌のホテルマン・井上いのうえは午後の日本橋にほんばしの上で聡と並んで、ブロンズの麒麟像きりんぞうを見てから笑った。


「ええ。いずれ、首都高しゅとこうが地下に移設されれば、この麒麟像の上にも邪魔じゃまものがなくなります。麒麟も自由に空を飛べるでしょう。しかし首都高の移設工事が完成するのはこれから二十年後だと言いますし、ずれ込むことを考えたら三十年はかかりますよ」

「三十年……」


聡は思わず、つぶやいた。


「そんなに、待てねえよ」

松ヶ峰まつがみねさま?」

「だって井上さん、今から三十年たてば俺なんて五十七才ですよ。それほどは、待てません」

「三十年が待てないほど、この麒麟におもれがございますか」


井上は深い声音こわねで聡に尋ねた。

深い、深いこえいろ

昨夜の井上が、コルヌイエホテルのスイートルームの前で、つぶやいた一言とよく似た色合いろあいの声だった。


あの時、井上は何と言ったのだったか。

聡は消えていきそうな記憶をさぐった。

そうだ。あのとき井上は、井上をあっさりと捨ててスイートルームの奥へ入ってしまった女性の名前を呼んでいたのだ。

『おやすみ、さえ』と。


さえ。

おそらくそれが、井上の最愛の女性の名だろう。

このひとなら、と聡はふいに思った。

この人になら、おれの欲情のはしっこを見せても悪くはないだろう。きっと黙って受け止めてくれるはずだ。


一生に一度の恋を、死ぬまで隠し通す覚悟をもっている男なら。

聡の恋も笑わないはずだ。

聡は麒麟の像を見上げて、井上に話しはじめた。


「俺には、がいましてね」


聡の突然の告白を、井上は端正な顔をピクリともさせずに、ホテルマンらしいすっきりした立ち姿のままで聞いていた。


「そいつは高校を卒業してから名古屋を出て、東京へ行きました。どうも、その後ろには俺のおふくろの綿密めんみつな、たくらみがあったようなんですが――とにかくあいつは東京に行ってから年に数回しか名古屋に帰って来ませんでした。

そして帰ってくるたびにひどい顔になっていった。鼻がとがって、目元がどんどん暗くなって。

だから俺は、もういっそ名古屋へ戻ってきたらいいと言ったんです」


あのころの音也の顔つきを思いだすと、聡は今でも胸を締め付けられるような気持になる。

もともと細身ほそみの身体つきなのに見るたびに痩せていき、それでも死刑囚のような顔つきで松ヶ峰家へやってきた。


それは、おそらく聡の母・紀沙へ定期報告をするためだったのだ、と今の聡ならわかる。

聡の母が、音也のスポンサーだったからだ。

紀沙は、いずれ息子のための汚れ仕事をさせるべく、大金を費やして楠音也を若い選挙参謀に仕立てあげたのだ。


松ヶ峰紀沙と言う女は、たった一人の息子のために平気でそれだけの手を打てる女だった。

そして音也は、紀沙の意向に唯々諾々いいだくだくとしたがった。


なぜだ。

なぜ音也は、あれほどつらそうな顔をしながらそれでも聡の母の命令に従ったのか。

そこにあったのは、カネ、というわかりやすい理由だけだったのか。


聡は、音也が東京でつらい気持ちになるたびに通ったと言う、日本橋の麒麟像をあらためて見つめた。

ブロンズの麒麟像はほんのりと温かいが、どれだけ聡がたずねても答えをくれない。

ただ、初夏の午後の温みをぼんやりと聡の手のひらに伝えて来るばかりだ。

聡がもう一度つぶやく。


「俺が何を言っても、あいつは名古屋へ戻ってこなかった。まるで、なにかにおびえているかのようだった。あれはいったい……なんだったんだ?」

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