第二十五話 紀沙さんの代わり

正面から向き合うと、楠音也くすのき おとやさとしよりほんの少し小柄に見える。癖で猫背になるのと、音也の身体がしなり上げたムチのように細いからだ。


聡は全身のバランスがいいため細く見えるが、もともと筋肉質だ。体重では、高校生時代からずっと音也より五キロは多い。細いぶんだけ音也には鋭さがあり、聡の弱いところに揉み込むように刺さってくる。

聡は昔から、音也の差し込んでくる的確な針に勝つことができない。

だからせめてもの抵抗として、眉間みけんにしわを立てて一語一語、区切るようなしゃべり方で音也に言いかえした


「法律も血縁も関係がない。たまちゃんは俺の家族だ。今さらお前にゴタゴタいわれたくねえよ」

「しかし事実だ。聡、おれはたまきちゃんが妹じゃないことが悪い、と言っているわけじゃない。むしろメリットだ」

「メリット?」


眉間のしわを深めたまま、聡は音也をにらんだ。

この家は、静かすぎる。俺の声しかしないじゃないか、と思った。

音也の声は、うちの中に響かない。そのくせ低いバリトンだけがじわじわと聡の背筋をいのぼり、後頭部から皮膚の下にもぐりこんでくる。

深く、すこしかすれた音也の声。

音也は


「まあ、座れ」


と言って、ぽんと大きな手で聡の肩を押した。

聡は糸の切れた人形のように、椅子の上に座りこんだ。その上へ楠音也の、人をあやつりなれている声が降りおちる。


「なあ聡。前にな、おれが女性票について話したことを覚えているか?」


ああ、と聡は話の行き先がわからないまま、目の前の音也を見上げて答えた。


「選挙で勝つには、おばさんたちの固定票がいるっていう話だろう」

「そうだ。これまで、このあたりの女性票をガッツリつかんでいたのはお前の亡くなったお母さん、松ヶ峰紀沙まつがみね きささんだった」

「ああ、だけどおふくろはもういないぜ?」


聡がそう言うと音也はにやりと笑った。


「いるんだ。紀沙さんの代わりが、いるんだよ聡」

「―――なんのことだ」


ぞわりと、松ヶ峰聡のうちに、かくしようのない恐怖がわきあがってきた。


楠音也くすのき おとやは松ヶ峰邸の二階リビングに立ち、まるできれいな悪鬼のように笑っている。

音也が口を開く。この男の声はいつも平静だ。


「いいか、聡。選挙では、男の候補者なんか若くててくれがよければ十分なんだ。女の有権者が本気で聞くのはだからな。

だがどんな女の話でもいいってものじゃない」

「何のことだ、音也」

「おまえの、嫁の話だよ聡」


ぞくんっと聡の全身に寒気がはしった。


「…よめ?」

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