第二十六話 しんじゅう

ああ、と楠音也くすのき おとやはきれいな目元をますます美しくほそめて、聡に向かって話しはじめた。

音也の深い深いバリトンが、人気のない深夜の松ヶ峰邸の中にじわりとしみこんでゆく。


「おまえの嫁の話だよ。二十七才の候補者が健全な家庭を持っている。大事なイメージ戦略だ」

「俺に嫁なんかいねえぞ」

「まだ、な。もうじきできる」

「なにが?」


聡はかろうじてそう言った。まるでたちの悪い詐欺師さぎしにだまされているような気がする。

問題なのは、聡自身がすっかり詐欺の術中に落ちてしまい、身動きひとつとれないことだ。眼前の死を待ち受けるカマキリのおすのように、恍惚としている。

そしてそのまま、音也に食らい尽くされる。


楠音也は百八十四センチの身体でゆらゆらと松ヶ峰家のリビングを歩きながら、完璧に作り上げた戦略をひとつひとつ、ものおぼえの悪い猟犬に教え込むようにゆっくり話しつづけた。


「お前の嫁になるなら、ものしずかでひんがあって、だけどまわりを圧倒しない程度の女がいい。若くて世間せけんずれしていないこともプラスになる。ちょっと思案じあんなタイプなら、なおいい。

いずれは後援会を牛耳ぎゅうじって引きずりまわすくらいになってもらいたいが、初選挙の若い候補者のパートナーとしては、そのへんが理想だ。

なあ、たまきちゃんがぴったり当てはまると思わないか」

「正気か、音也」

「おれは頭の中がこおるほど冷静だ。そうでなければ、こんなことが言えるかよ。聡、おまえは環ちゃんと結婚するんだ。選挙の前にな」


すうっと聡のこぶしが握りしめられた。きつく目をつむり、長く息を吐く。


「ふざけんなよ、音也」

「おれは本気だ」


音也の低く底の底があるようなバリトンを聞きながら、聡は、自分がいつかこの男を殺すだろうと思う。どうしようもないほどに濃い、焼けつくような恋情のせいだ。

だが今はまだ、音也ののどに手をかける時じゃない。

それは、聡が一度でもだ。

そこまで考えて、松ヶ峰聡は愕然とする。


おもいを果たした後?


一体聡は、音也に何をするつもりなのだろうか。

音也に対して。

自分自身のコントロールのきかない恋情に対して。


しんじゅう。

ふっと、そんな言葉が聡の頭にひらめいた。

そうだ、俺はこいつを道づれにして死んでやる。いつか、いつかだ。

しかしたとえ学生時代の親友に手をかけて無理心中をするとしても、その時でさえ聡は、ただの松ヶ峰聡まつがみね さとしであってはならない。

愛知二区選出の”衆議院議員・松ヶ峰聡”の無理心中でなければ、意味がないのだ。


政治家であることが、聡の使命だから。

松ヶ峰聡という男が、これまで生かされてきた理由はその一点にしかないからだ。


聡はゆっくりと息を整え、すっと立ち上がった。

コイツをいつか殺す。

そう思うよりほかに、今の自分をコントロールすることはできない。

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