第百五十八話 準備

たまきがじっと胸に下がる“白玉環はくぎょくかん”を見つめていると、テーブルの向こうから今野こんのが話しかけてきた。


「それ、見せてもらってもいい?」


ええ、と答えて環は自分の首から白玉環をつけている革ひもをはずし、今野の手に乗せた。

今野は高級ホテルの和食テーブルの上で、今までぎょくに密着していた環の体温を確かめるようにそっとペンダントヘッドをなでた。


「…きれいなもんだな。俺はずっと映画の画面ごしでしか見たことがなかった」

細工さいくがこまかいんです。花びらが、まるで浮かび上がってきているようです」


環がそう言うと今野もうなずいた。そしてゆっくりと手の中で白い玉をころがして、裏を見る。


「裏は花じゃないんだね」

「ええ。龍が彫刻してあります」

「この龍が、花を守っているわけか」


今野は小さなぎょくの裏と表を丹念たんねんに眺めてから、環を見ずにつぶやいた。


「なんで城見しろみ監督は君にこれをくれたの?”白玉環”といえば城見監督の映画に必ず出てくる大事なものじゃないか」

「さあ…紀沙きさおばさまのロレックスの代わりじゃないでしょうか」


環はほんのりと微笑んで答えた。今野がじろりと環を眺める。


「ちぇっ。こういう時さ、君はほんとに口が固いんだよな」

「ごめんなさい」

「いいよ。口が固いのは、政治家の嫁としてはいいことだ」

「―――よめ?」


環が首をかしげる。聡の結婚相手のことだろうか。

いや、聡はもう二度と女性と結婚しようとは思わないだろうと環は思った。

環の兄がわりの松ヶ峰聡まつがみね さとしは、恋しくて恋しくてたまらなかった人をついにパートナーにしたようだから。


聡の親友であり唯一の政治秘書である楠音也くすのき おとやは、今から約1か月まえ、このコルヌイエホテルから姿を消した。そして2週間の失踪しっそうのあと、名古屋の松ヶ峰まつがみね事務所へみずから戻ってきたのだ。

それ以来、聡は目に見えて落ち着き、以前とはうってかわって生き生きとしはじめた。

イライラしたり不安がったりすることがなくなり、もはや一切のプライドを振り捨てて目の前の衆院選に集中しはじめた。

聡の集中度が、環にびりびりと伝わってくるほどの”本気”だ。


もともとカリスマ性の高い男だから、いったん聡が能動的に動き始めると周囲はたやすく聡の作り出す大波に飲み込まれた。

今では松ヶ峰聡の政治後援会“吉松会きっしょうかい”は強固な一枚岩いちまいいわとなり、名古屋の上流婦人の集団“純白じゅんぱく”や人間国宝・夏尾竹水なつおちくすいの門下生グループなど、新たな支援者を日々巻き込みながら巨大な票集団に成長しつつある。


聡の変貌ぶりを見て、環は、聡が身体も愛情も自分自身の未来でさえもたったひとりのひとに預けきったことを知った。

それがどれほど幸せなことなのかも、今の環には分かる。

だから環は二人のことをそっと見ているだけにしたいのだ。

今野さん、と言ってから環は静かにはしをおいた。


「サト兄さんのことは、選挙が終わるまではそっとしておきましょう。ご自分の考えがあるようですから」

「さとしさん?なんで聡さんが出てくるの?―――の話だよ。つまり、きみのこと」


ああもう、といって今野は行儀ぎょうぎわるくテーブルの上に箸を投げ出した。


「バカだな、俺は。どうしてこんなところでこんなふうに言っちゃうんだよ。このあとスイートルームに戻れば、ベッドの上にはバラの花が置いてあってシャンパンがあって指輪があるのに。せっかくの準備がだいなしだ」

「じゅんび?」


環は老舗ホテルの和食レストランの中で、目をぱちくりさせた。

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