第八十八話 親友が残していった悦楽の名残

そうだな、と聡は視線を泳がせて答えた。

今から今野こんのが東京へ来る場合、名古屋からだと約2時間かかる。2時間かけてやってきても、東京で今野がやれることはない。

そう言う考え方で行けば、聡ができることも何もなかった。


きちんとスーツを着て、コルヌイエホテルの優美なスイートルームで座っている以外に、松ヶ峰聡まつがみね さとしにできることはない。

聡は頭を振って、スマホ経由で今野に指示を出した。


「いや、予定どおりでいい。俺は東京を七時に出る新幹線に乗るから、名古屋駅に八時半に迎えに来てくれ。新幹線を早めることがあれば、また連絡する」

「了解です…あの、音也おとやさんは一緒じゃないんですか」


今野の問いに聡は顔をしかめた。スマホ越しに表情がわかるわけでもないのに、今野は機敏に聡の気配を察して声を落とした。


「すいません…じゃあ今夜、迎えに行きます」


とだけ言って、今野は電話を切った。

聡はため息をついてから、スマホをベッドの上に放り投げた。高級ホテル、コルヌイエのスイートはスプリングの良いベッドを使っているらしく、聡に投げ捨てられたスマホは音もたてずに静かにシーツの間に沈んだ。

聡はもう一度、自分の一分いちぶすきもない着衣を眺めてから小さく息をはいた。


「あのヤロウ、どういうつもりだよ」


それから身軽に立ち上がる。少し早いが、もうチェックアウトするつもりだ。

聡は持ってきた一泊用バッグを手にすると、ジャケットをはおる。袖を通したジャケットとベストの隙間から、ふわりと花のような香りがした。

音也の使っているトワレ、デューンの匂いだ。


聡の鼻腔から入った甘い香りは脳髄に向かって真っすぐに突き進み、聡の思考をめちゃくちゃにしていく。

音也は最後に何と言った?

『何もかも忘れてくれ』だと?

聡は濃紺のエルメスのネクタイをなでおろしながらつぶやいた。


「勝手なこと、言ってんじゃねえ」


そのまま聡は足早にスイートを出た。ふんわりとドアがしまり、聡の身体に残っていた音也の残り香をも断ち切ってしまう。

しかし、ホテルルームのドアが閉じてしまっても。

松ヶ峰聡の身体の底には、親友が残していった悦楽の名残なごりが深く沈んでいる。



★★★

中途半端な時間のチェックアウトは、機敏なコルヌイエスタッフの手であっという間にすんでしまった。

レセプションカウンターにいたのは、聡とあまり年が変わらないような若い男性スタッフだ。聡はカウンター上のトレイに戻されたクレジットカードを財布にしまいながら、ちらりとシックで華やかな高級ホテルのロビーを見まわした。


「いかがなさいましたか」


よく教育された若いホテルマンがにこやかに尋ねる。聡は一瞬あいまいに笑い、しかしやはり聞いてみたくて


「あの、今日は井上いのうえさんはお見えですか。名古屋から来た松ヶ峰と申します」

「井上でございますか。本日も出ております、お待ちくださいませ」


若い男性スタッフがそういったとき、まるで出番を待ちかまえていた役者のように、長身と端正な美貌を光らせた男があざやかにホテルのロビーを横切ってきた。

コルヌイエのホテルスタッフ、井上だ。

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