第四章

1「松ヶ峰聡の、埋まらない空隙」

第八十七話 あれは、夢か?

耳元でなにかうるさい音がする、と松ヶ峰聡まつがみね さとしは不機嫌に思った。

耳から入って脳髄を掻きまわす、とげとげしい音だ。聡をつつむ温かな眠りの世界に、冷たい刃を喰い込ませるいやな音が続いていた。


聡はむりやり目をひらき、柔らかいベッドの上を手で探った。

ベッド上ではスマホが鳴り続けている。


「俺、目覚めざましをかけておいたっけ…?」


寝ぼけたまま聡はスマホを取り、時間を確認した。午後三時。変な時間だ。


「はい、松ヶ峰です」


聡が適当に答えると、電話口の相手は一瞬だけ聡の声にひるんだように息をのみ、それから一気にたたみかけてきた。


「聡さん、俺です、今野こんのです。あの、さっき音也おとやさんから俺のスマホへ、わけわかんないメッセージが入ってて」

「コンか…音也がどうしたって?」

「たぶん聡さんところにも同じメッセが入っていると思うんです。おれ、意味が分からないんです」


今野はかなりパニックになっているようだ。聡は耳元でがなりたてる今野の声がうるさくなり、ベッドから起き上がってスマホを耳からはなした。

それからふと、自分が名古屋の松ヶ峰邸にいるのではないことに気が付いた。

天井が高い。

そうだ、東京のコルヌイエホテルだ。


そこから一気に聡の記憶がよみがえった。

音也おとや、今村先生、政治資金パーティ、御稲みしね先生。それからまた音也。

そう、音也だ。

聡はいきなり立ち上がり、自分の姿を見おろして呆然とした。


真っ白いワイシャツは今日の昼間、政治資金パーティに出席するためにコルヌイエホテルのスイートルームで着たまま、すべてのボタンがきちんとはまっている。おまけにシャツの上に、チャコールグレーのベストまで着ていた。

スーツのジャケットは着ていないが、聡が頭をめぐらせるとコルヌイエホテルの優雅なジュニアスイートのクローゼットにあるのが見えた。聡の百八十四センチの身体にあわせて仕立てたジャケットが、静かにハンガーにかかっていた。

聡にもスーツにも、わずかの乱れもない。


だとしたら、あれは、夢か?

聡にキスをして首筋に唇を這わせ、シャツを開いて隙間から骨の長い指を差し込んだ楠音也くすのき おとやは、全部夢か?

聡は混乱しながら、電話口の今野に向かって言った。


「まだ俺はメッセージを見ていないんだ。音也は、なんだって?」

「俺のスマホに、二週間分の聡さんのスケジュールが送られてきました。事務所スタッフが持っているやつじゃなくて、分刻ふんきざみになっている音也さん専用のスケジュール表です。そこに『秘書代理・今野哲史こんのてつし、期間・二週間』と書いてありました」

「―――だいり?」


ふっと、聡も今野も黙ってしまった。しばらくの沈黙の後、今野がおそるおそる尋ねた。


「それで。俺は今夜、予定どおり名古屋駅に迎えに行けばいいんですか?それとも、今から東京へ行きましょうか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る