第八十六話 初夏の朝九時。 世界が、変わってゆく

「ここじゃ、いや」


壮麗な洋館、松ヶ峰邸まつがみねていの二階リビングでそう言った藤島環ふじしまたまきは、その声が自分のものだとは思えなかった。

なんだかしいの木の上から、突然りおちてきた声のように感じる。

だが言葉は確実に環の身体の底から、環の声帯をふるわせてこの世にこぼれ落ちてきた。

そしていったん身体の外へ出た言葉を回収することは、りこうな天使にもできない。


びくん、とDVDを持った今野こんのの動きが止まった。今野の大きな背中は、ぎわりと不思議な形にかわり、呼吸にあわせてかすかに動いている。


「――なんだって、環ちゃん?」


環はもう自分の心臓の音がうるさすぎて、何を言っているのかよくわからなくなった。ただ、言葉だけが次々とこぼれ落ちていく。


「ここじゃ、いや。だってソファだし、古いし、痛いし」

「……ソファじゃなくて、痛くなければ、いい?」

「あなたが連れて行ってくれればいいの」


今野はDVDをケースにおさめ終わり、何も言わずに振り返った。

その時初めて、環は今野のシャツを着た肩がやけに大きくて、ざつにめくりあげた袖から、丸くて固そうな手首の骨がのぞいているのに気がついた。

あの骨に歯を立ててみたい、と環が思ったとき、ふわっと今野に抱き上げられた。


今野の唇が環の首筋をなぞってゆく。

もうはっきりと欲情でかすれた男の声が、環の耳元にあった。


「どこならいいんだ」


環は笑った。そして自分も今野の耳元に口を寄せ、小さな声でささやく。


「さっき、教えてあげたでしょう?」


びくんっと、今野の身体が揺れた。その揺れは環にも伝わり、身体の奥から初めての熱を引き出していく。

きゅっと、今野は環の耳たぶを噛んだ。


「君の部屋で、いい?」

「あの……歩けますから。重いですよ、私、太っているんです」


環が赤くなってそう言うと、今野は怒ったように腕の中の環をゆすりあげた。

ちょうど白い煙をあげたフライパンの中で黄金色の卵液を一グラムのミスもなく掻きたて、あっというまにキラキラ輝くフリッタータに仕上げたように。

そして今野が、にやりとする。


「おろさねえよ。こんな時に好きな女も背負しょえねえような男じゃ、どうにもならねえだろ」


ゆっくりと、今野が環を抱えたまま歩いていく。

その足元で、あめ色に輝く松ヶ峰亭の古い木細工ぎざいくの廊下が甘く甘くきしんだ。


環の部屋の重いチークのドアが開く。

よく油をさした金具は一音いちおんもたてずに環と今野を受け入れて、静かにしまっていった。

初夏の朝九時。

世界が、変わってゆく。

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