第八十五話 どこで、何が入れ替わったのかわからない

今野こんのの大きな手が、そっと藤島環ふじしまたまきの耳にふれる。耳たぶをつまみ、ひねり、揉みしだいてからゆっくりと離れた。

環の身体に、不安が来る。

これで、おしまい?


今野はかすかに笑って、環の不安をすくい取ったかのように環の頬に手を添えた。

低くやさしい声が、朝九時の光の中でくすぐったいほどに環には心地よく聞こえた。


「恋しかった。一晩中、君が何をしているのかって考えていた。いっそ、警備を呼ばれてでもいいからここに忍び込もうかと思ったほどだ」


環が、小さな声で尋ねる。


「この屋敷に忍び込んで、どうするつもりだったんです?」


ふふっと今野が笑った。今野が笑うときれいに配置された目鼻のパーツの中で、とりわけ口角こうかくがきゅっと上がってたぐいまれな曲線を作ることに、環は初めて気がついた。


このひとは、男の人だ、と環は思った。藤島環が、初めて間近に見る”男”がそこにいた。

今野の唇のゆるやかなカーブが、環に近づいてくる。

ゆっくりではあるが、天空の一点から迷いもなく最短距離で獲物に向かって滑空かっくうしてくるフクロウやハヤブサのようだ。

今野には、やるべきことが分かっている。

そしておそらく、環にも。


「もう一度、キスしたかった」


今野の大きな手は環の頭を固定して、逃げられないようにする。そして環は、自分に逃げるつもりがないことを知っている。

そっと、今野の唇が乗る。

体温と、わずかにそれを上まわる熱が環のくちに入ってくる。


「……ん」


環がうめいたのをきっかけに、今野は少しずつ体重を乗せてきた。環の座るソファが、ぎしりときしむ。

キスは次第に熱を帯び、環の口の中で、とどまれない龍のように暴れはじめる。

やがてキスの合間あいまに今野が身体を離し、環に向かって笑いかけた。


「たまきちゃん……もっと、してえ」


かろうじて言葉の形を取って、今野の欲情が環に向かってまっすぐに流れ込んできた。熱くて切迫していて、奔流のような欲情だ。

だが今ならまだ、その奔流はせき止められる。

それを環が望むなら。


環は目を開いて、奥二重おくぶたえの瞳でじっと今野を見た。

今野はにがく笑い


「ごめん。俺なんかじゃダメだよな。金もねえし仕事ができるわけでもねえし、得意なこともない。ちゅうぶらりんのつまんねえ男だよ」


きしっと、もう一度古いソファが鳴った。今度は今野がソファから立ち上がった音だ。

環はゆっくりと、自分もソファに座り直した。

今野はテレビセットの前に座り込み、DVDを出している。その背中は、環が思っていたより二倍も三倍も大きく見えた。


藤島環に初めてのキスをした男は、環のまったく知らない人間のようだった。

ほんの一時間ほど前に手ぎわよくオムレツを作ってくれ、銀のフォークに乗せて食べさせてくれた今野哲史こんのてつしと言う男を、環はもっと知りたいと思った。

そこには理由はない。ただ環がそうしたい、と思っただけだ。


そして藤島環は、自分がときには無謀なことをする人間だと知っている。ちょうど今野をかばって三メートルの高さから飛び降りた昨日と同じく。

、と環は考えた。しかししいの木から飛び下りる前と後では、環は変わってしまった。


だから、環の口から言葉がこぼれ出る。

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