第八十九話 明星と金星
都内有数の高級ホテル・コルヌイエホテルのレセプションカウンターを預かるホテルマン・
今もゆったりとメインロビーを横切ってくるだけで、ロビーにいる女性ゲストからの視線が集まった。
しかし
井上はまっすぐに聡のもとへやって来て、
「松ヶ峰様。もうチェックアウトですか」
井上は昨夜とは違うダークスーツをしなやかに着こなし、完璧な角度で手をそろえて聡の前に立った。その声は、やや甘いテノールだ。
「本日は、夕方のご
「いいえ、思ったよりも用が早くすみましたから。このまま名古屋へ帰ります」
「さようでございますか……あ」
と、井上はかすかな声でつぶやいてから、きれいな角度でお
「このたびはお母さまのこと、まことにご
「そうでした、そのお礼をいわなくちゃいけなかったんだ。その
「白のスイートピーは、ことのほか
それにしても、あの
井上はすんなりした鼻の上で冷たく輝くシルバーフレームの眼鏡の位置をなおし、かすかなため息をはいた。
その様子はまるで映画のスチール写真のようで、聡はこんな時なのに見とれてしまった。
同じ美男と言っても、井上と
井上が夜のはじめに輝く
そして音也が聡の手の届く限りのところにある星だとしたら、井上は聡や音也とは一段ちがう場所で輝く
とはいえ、音也も聡には手に入れられない星なのだが。
だがその星はほんの数時間前に聡にふれた。
音也はそのゆびで、舌で吐息で聡にふれて聡から熱を引き出し、その熱をそっくり飲み込んでから消えてしまった。
音也の指が温かかったぶんだけ、聡の
ふっと、聡は自分の目に涙の薄い膜が張っていくのがわかった。
音也には、忘れろと言われた。
でも、忘れられない。
「松ヶ峰様?」
そう井上から声をかけられて、思わず聡ははっとした。目の前には、見るものがからめ取られずにいられないほどの井上の端正な顔があった。
「お疲れのようですね」
聡はあいまいに笑い、
「すみません。ゆうべは東京に
とはいえ、井上さんだってゆうべおそくまで働いていたのに」
聡の言葉を聞いて、ふっと井上の
明星にかすかな雲がかかったように輝きが
井上の甘いテノールが、甘くない言葉で尋ねた。
「わたくしは昨日、休みをいただいておりましたが……どこかでお目にかかりましたでしょうか」
「え。あ……あっ」
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