第八十九話 明星と金星

都内有数の高級ホテル・コルヌイエホテルのレセプションカウンターを預かるホテルマン・井上いのうえは、三十代なかばになるというのに人目を引かずにいられないほどに優美かつ端正な男である。

今もゆったりとメインロビーを横切ってくるだけで、ロビーにいる女性ゲストからの視線が集まった。


しかし松ヶ峰聡まつがみね さとしが知る限りつねに仕事だけを優先させてきた男は、ゲストからの視線くらいではびくともしない。

井上はまっすぐに聡のもとへやって来て、ながの目をシルバーフレームの奥で光らせてから聡に笑いかけた。


「松ヶ峰様。もうチェックアウトですか」


井上は昨夜とは違うダークスーツをしなやかに着こなし、完璧な角度で手をそろえて聡の前に立った。その声は、やや甘いテノールだ。


「本日は、夕方のご出立しゅったつうかがっておりましたが……なにか、ございましたか」

「いいえ、思ったよりも用が早くすみましたから。このまま名古屋へ帰ります」

「さようでございますか……あ」


と、井上はかすかな声でつぶやいてから、きれいな角度でお辞儀じぎをした。


「このたびはお母さまのこと、まことにご愁傷しゅうしょうさまでございました。わたくしも本来ならばご葬儀に参列せねばなりませんのに、弔電ちょうでんだけで失礼させていただきました」

「そうでした、そのお礼をいわなくちゃいけなかったんだ。そのせつはごていねいに弔電と花を送っていただきまして、ありがとうございました。いただいた供花きょうかのなかに、母の好きな花が入っていたそうで。家族が喜んでいました」


「白のスイートピーは、ことのほか紀沙きささまがお好みの花でしたので……コルヌイエにご宿泊いただくたびに、スイートに飾らせていただいておりました。

それにしても、あの大輪たいりんはなのような方がお亡くなりになったとは。ご家族さまはさぞかしおなげきのことでしょう」


井上はすんなりした鼻の上で冷たく輝くシルバーフレームの眼鏡の位置をなおし、かすかなため息をはいた。

その様子はまるで映画のスチール写真のようで、聡はこんな時なのに見とれてしまった。


同じ美男と言っても、井上と音也おとやとではまるで印象が違う。

井上が夜のはじめに輝く明星みょうじょうだとしたら、音也の美しさは夜じゅう光り続ける金星のような根太ねぶとい明るさだ。

そして音也が聡の手の届く限りのところにある星だとしたら、井上は聡や音也とは一段ちがう場所で輝くよいの明星のようなものだった。

とはいえ、音也も聡には手に入れられない星なのだが。


だがその星はほんの数時間前に聡にふれた。

音也はそのゆびで、舌で吐息で聡にふれて聡から熱を引き出し、その熱をそっくり飲み込んでから消えてしまった。

音也の指が温かかったぶんだけ、聡のせつなさは咽喉のどもとにせりあがってくる。


ふっと、聡は自分の目に涙の薄い膜が張っていくのがわかった。

音也には、忘れろと言われた。

でも、忘れられない。


「松ヶ峰様?」


そう井上から声をかけられて、思わず聡ははっとした。目の前には、見るものがからめ取られずにいられないほどの井上の端正な顔があった。


「お疲れのようですね」


聡はあいまいに笑い、


「すみません。ゆうべは東京にいたのが遅かったですし、今日の今村いまむら先生のパーティが無事に終わって、気が抜けたみたいです。

とはいえ、井上さんだってゆうべおそくまで働いていたのに」


聡の言葉を聞いて、ふっと井上のまゆがひそめられた。

明星にかすかな雲がかかったように輝きがげんじ、どこかから鋭い角度を持った風が吹いてきたのを、聡は感じる。

井上の甘いテノールが、甘くない言葉で尋ねた。


「わたくしは昨日、休みをいただいておりましたが……どこかでお目にかかりましたでしょうか」

「え。あ……あっ」

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