第九十話 男が、死ぬまで隠しとおすつもりの恋

さとしが正直にうろたえると、ベテランホテルマンである井上いのうえはさりげなく視線を落とし、ゆうべと同じ角度で自分の革靴の先を子細しさいに観察した。

それからさりげなく顔を上げ、いつもの端麗な笑顔で


松ヶ峰まつがみねさま、昨夜は1210にお泊りでしたね」


とだけ言った。聡はもう、声も出ない。

失策だ。

ゆうべの井上は、誰にも見られていないと思っていたはずだからだ。


コルヌイエホテルのスイートのドアにひたいをつけ、目を閉じて立ちつくしていた井上の姿は同性の聡から見てもぞっとするほど美しかった。しかし井上自身は、その姿を誰にも見られたくなかっただろう。

あれは、男が死ぬまで隠しとおすつもりの恋だからだ。

やがて井上は静かに口を開いた。


「これから、新幹線で名古屋へお戻りですか、松ヶ峰さま?」

「ええ」


聡がうなずくと、井上はホテルマンらしくきちんとした角度で両手をそろえて、にこりとした。


「よろしければ、わたくしが東京駅までお送りしましょう。あ、山瀬やませ君、私の車をエントランスへ運ばせてください――ええ、このまま松ヶ峰様と出ることにいたします」



★★★

コルヌイエホテルのメインエントランスにつけられた車は、モスグリーンのミニ・クラブマンだった。

井上は聡の手からバッグを取るとさっさと車の後部座席にしまい込み、にこやかに助手席のドアを開けた。


「お待たせいたしました。どうぞ」


聡は直前までためらっていたが、思いきってぶりのイギリス車に乗った。

井上はベテランのホテルマンらしい柔らかな身ごなしで助手席のドアを閉め、自分はかろやかに車の背後を回り込んでから運転席に乗り込んだ。


よく手入れされているらしい車は、井上がしなやかな指でキーをひねるとたちまち軽快なエンジン音で息を吹き返した。

まるで手練てだれの騎士にたあいもなく目覚めさせられた竜のように。

井上は慣れた手つきでハンドルをあつかい、車を車道に出した。それから隣の聡に向かって


「この時間ですと、三十分くらいで東京駅に着きます。新幹線のお時間は何時ですか?」

「ああ、買っておいた切符は東京駅を夜の七時発なんです。まだ時間が早すぎますから、てきとうに土産を買ってからチケットを変更しようと思っています」


さようですか……とつぶやいてから、井上は赤信号で車をとめた。


「どこか、ご覧になりたいところがあればこのままご案内いたしますが? わたくし、本日は休みなんです」

「休み? 休みなのにダークスーツを着て、職場にいたんですか? とんだワーカホリックですね」


と、聡は明るく笑った。それからふと思う。

俺はまだ笑える。あんなことがあった後なのに、笑っている。

それが良いことなのか悪いことなのか、聡にはよくわからない。

わかっているのは、自分が親友の愛撫のあとを身体に秘めたままで、平気な顔をして他の人間と話して笑える、と言うことだ。


それはつまり、松ヶ峰聡まつがみね さとし楠音也くすのき おとやを愛したままでも生きていけることを意味していた。

朝になれば目覚め、食事をして働き、夜になれば眠るのと同じように、聡は音也を愛する事ができるのだ。


それがわかって、聡はほっとした。

聡はこのまま音也を愛してもいい。

この先に何が起ころうと、何も起こらずに終わってしまおうと、聡は楠音也を愛していてもいい。

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