第九十一話 イギリス車の愛好者は、イギリス車の“頑固さ”を愛している

松ヶ峰聡まつがみね さとしを取り巻いていた確固たる世界は、コルヌイエホテルのスイートルームのドア一枚を経由して、すべて変わってしまったようだ。

そして自分にとって大きな変化をもたらした場所が、幼いころから母とともに出入りしてきた優雅なコルヌイエホテルであることが聡を安心させた。


きっと、あのスイートでなければ起きなかったことだ。

聡はそう理解した。

まるで、聡と音也おとやはあの優美なホテルの一室で、気のいい魔女にきれいな魔法をかけられたかのようだ。

音也の声と体温が一つに溶けあった、甘美な魔法だった。

聡と音也だけにかけられた魔法だ。


聡は笑顔になると、小さな車の運転席におさまった美貌のホテルマン・井上いのうえに明るい声で話しかけた。


「これ、いい車ですね。おれはミニには初めて乗りました。ミニは、イギリス車でしたっけ?」


すると運転席に座る有能なホテルマンはにこりと笑い


「ええ。今はドイツのBMWが作っている車ですが、もともとはイギリス車です。BMWにうつったとはいえ、いまだにイギリス車の頑固がんこさを色濃いろこく残していますよ」


ここで井上は銀色のフレームの奥から目を光らせて、聡を見た。とにかくもう、圧倒的な美貌だ。


「ご存じですか、イギリス車の愛好者は“イギリス車の頑固さ”を愛しているのだそうです。日本車の乗りやすさを捨てて、フランス車のエスプリやイタリア車の華やかさには目もくれない。

かわりにサスはがちがち、ハンドリングはねじ伏せなくてはならないような車だからこそ、イギリス車が好きなんですよ」


井上のたとえは妙を得ていて、聡は思わず笑った。


「分かる気がします。たしかにこの車の気むずかしさの魅力は、日本車がたばになってもかなわないですね」

「そのぶん、うまく機嫌きげんをとれたときはうれしいんです。そう、ちょうどこのみの女性をうまくバーで落とした時の気分ですよ」


ふっと、車内に沈黙が落ちた。運転席の井上も隣にすわる聡も、脳裏に同じ女性を思い描いていた。

薄暗いコルヌイエホテルのスイートルームの前に立つ、りんとしたやなぎ若木わかぎのような女性だ。

井上の静かな声が、聡に尋ねた。


「――ゆうべは、どこまでご覧になりましたか」


いつのまにか、聡の目の前には鈍色にびいろの水をたたえた皇居の堀が現れ、半蔵門はんぞうもんが見えてきた。

井上はなめらかに車を右折させて、東京駅に向かうべく、内堀通うちぼりどおりへ入っていく。

道路ぞいには街路樹が並び、すでにいくつか乳白色の花をつけ始めている。車窓を行きすぎる木々を見上げて、聡は答えた。


「最後まで、見てしまったと思います。井上さんが、俺の部屋の向かいにあったスイートのドアを開けて出てくるところからスイートのドアが閉まるまで、です」


ふう、とかすかに井上が息を吐いた。聡はまだぼんやりと内堀通りに植えられた大きな木々を眺めながら、井上の息のつややかさに驚きを感じた。

このホテルマンはただの有能なホテルマンじゃない。

色つやのある、大人の男だ。

困惑する聡に向かって、井上のやや甘いテノールの声が、あきらめたようにつぶやいた。


「では、最初から最後までごらんになったわけですね。おれの、どうしようもない“いたずら”を」

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