第九十二話 『おれが呼ばなければ、きみはぜったいにおれのところへ来てくれない』

「あれは、いたずらなんかじゃなかったでしょう」


さとしはやや憤然としつつ、運転席に座る井上いのうえの端正な美貌を見た。この十五年、ホテルマンとしてしか知らなかった井上を年上の男として見てみた。

美しく有能で、しかし頑固であることをみずからの根本こんぽんに置いている手ごわい男が、冷静な手つきでミニ・クラブマンを走らせていた。


聡は井上がまとっている完璧な防御壁ぼうぎょへきにわずかでもいいから穴をあけたくて、やや乱暴に言葉をかさねた。


「いたずらなんかじゃなかった。おれは正直にいって、感動しましたよ。男がひとを本気で好きになるとはどういうことなのか、はじめてかたちとして見せてもらいました」

「そういう事ではないんですよ。彼女は、おれの妹の親友です」

「いもうと? 井上さんに妹さんがおられましたか」

「いるんです。血は半分しかつながっていませんし、名前もちがいますが」


井上はモスグリーンのミニ・クラブマンを皇居の堀ぞいに走らせながら続けた。


「昨日は、妹が体調を崩しましてあの部屋で寝込んでおりました。彼女は妹の看病のためにわざわざ一泊してくれただけなのです。わたくしとは、関わりはございません」


その言葉がうそであることは、井上にも聡にもわかっている。なぜなら、昨夜の井上はコルヌイエホテルの廊下で女性に向かって、こう言ったからだ。


『おれが呼ばなければ、きみはぜったいにおれのところへ来てくれない』


短い言葉の中で井上は、来ないからこそ君が大切だ、と言外げんがいに叫んでいるようなものだった。

ちょうどイギリス車好きの男が、言うことをきかない頑固なイギリス車を手放せないように。井上はあの女性をどうしようもなく愛しているのだ。


身のまわりに無数にいるだろう、扱いやすい日本車のような女性たちに目もくれず、愛らしいフランス車にも派手なイタリア車にも心を許さず。

井上はねじ伏せねば来てもくれないイギリス車のような女性に、どうしようもなく恋をしているのだった。


聡は少し居心地いごこちが悪くなって、ミニの革シートの上でもぞもぞした。井上に対して、踏み込みすぎたと思った。

井上もどこかで言いすぎたと感じたらしい。

端正な顔に苦笑にがわらいを浮かべて、自分のほうの窓を少し開けて、亡くなったばかりの聡の母・松ヶ峰紀沙まつがみね きさのことを話しはじめた。


「いまだに、紀沙きささまが二度とコルヌイエにおいでにならないことが、信じられません。わたくしだけではなく、すべてのコルヌイエスタッフが信じがたい気持ちでおります。あの方は、ホテルマンにとって宝石のようにがたい方でしたから」

「……ほうせき?」


聡が思わず繰り返すと、井上はほんの少しだけ顔を聡のほうへかたむけて、うなずいた。


「わたくしどもは毎日、何百人というゲストをコルヌイエホテルにお迎えしております。どのゲストにも、おなじように快適に過ごしていただくのがホテルマンの使命です。しかし、なかにはご予約のお電話が入った瞬間からコルヌイエ中のスタッフがふるつようなお客さまがいらっしゃいます。

紀沙さまはまさしく、特別なお客さまだったのです」


「スタッフが、ふるいたつ?」


聡の困惑を横目で眺めて、美貌のホテルマンは切れ長の目じりのあたりをうっすらと赤らめた。

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