第九十三話 男の育て方

さとしの見るところ、モスグリーンのミニ・クラブマンを操りつつ切れ長の目じりをわずかに赤らめた井上いのうえは、おのれの存在を、仕事ひとつにかけぬいている男だった。

そして美貌のホテルマンは、ホテルマンとしての熱情を込めた言葉で聡の亡き母について語っていた。


「わたくしどもコルヌイエのスタッフは全員、紀沙きささまにご満足いただけるホテルマンでありたいと考えておりました。あの方のお望みなら海の底にもぐってでもかなえて差し上げたい。紀沙さまは、サービスマンにそう思わせてくださるお客さまだったのです」


聡は井上の仕事に対する熱情をうらやましく思いながら、答えた。


「おふくろは、コルヌイエホテルが好きでした。ロビーの華やかさも客室の優雅さも好きだった。そしてなにより、を信用していました」

「わたくしでは、ちからおよばぬ部分が多々ございましたよ。しかし紀沙さまは、男の育て方をよくご存知でしたね。あめとムチを上手に使い分けておいででした」

「俺にはムチばかりでした」

「あなたを、愛しておられましたからね」


井上の言葉に、聡は思わず目を見開いて尋ね返した。


「あいしていた?」


ええ、と華麗なホテルマンは“愛”という言葉を恥ずかしげもなく使った。


「コルヌイエにご滞在中の紀沙さまは、分刻ふんきざみのスケジュールをこなしていらっしゃいました。知人の国会議員の事務所を訪ねたり、地元の議員さんとご一緒に動かれたり。東京にいる間にひとつでも多くの仕事を終わらせておきたいという感じでした。

そして深夜近くにくたくたになってお戻りになると、コルヌイエのレセプションで私にこうおっしゃるのです、『これで少しは、聡も楽になるでしょう』と」


聡は息をのんで、ミニ・クラブマンをなめらかに運転する井上を見た。井上は、腕のいい彫刻家がたった今、大理石から切り出したような美貌をかたむけて笑った。


「あなたは、松ヶ峰まつがみねのお家を継ぐ方です。紀沙さまは決して、甘い顔はできなかったでしょう。たとえ、そうしたいと願っても」


ふう、と聡は息を吐き、車のシートに身体を預けた。


「おふくろがあなたに、そんなことを言っていたとは……母が死んでから、俺の知らなかったことが次々に出てくるんです。意味のつながらないことも多くて。いつか、おふくろの秘密のぜんぶがわかる日が来るんでしょうか」

「どうでしょう。わたくしも早くに母を亡くしましたが、いまだにわからないことがございますよ」

「そうですか。早くって何歳のときに……あっ、すみません、ぶしつけなことを聞いてしまって」


聡がしどろもどろに言うのに対して、井上はニコリとして答えた。


「母が亡くなりましたのは、わたくしが十四のときでした。それ以来ずっと、ひとりで生きてきた気がいたします」


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