第九十四話 日本橋の麒麟

「十四才? そんなに早くお母さんを亡くされたんですか……俺はもう二十七です。しっかりしなければなりませんね」


さとしがそう言うと、井上いのうえはシルバーフレームの奥で切れ長の目を柔らかくゆるめた。

まるで出来の悪い弟の失態を許すかのように。


「年令は関係がありません。男にとって母を失うとは、この世とのつながりの一部を永遠に手放てばなしたような気になる。そういうものなのでしょう」


井上はゆっくりと車を進め、東京駅にちかづいた。

平日の午後三時半。車は従順な仔羊こひつじのごとく列を作って勝手な方向へ走っているようで、どこかしら有機的な流れを作り出していた。

その流れの中に、井上の運転する車も乗っている。

ふと聡はこんなことを言ってみた。


「井上さん、東京駅へ行かずに日本橋にほんばしに行ってもらえませんか」


車のハンドルを握る井上は、わずかに驚いた表情を浮かべて端正な顔を聡に向けた。


「日本橋、でございますか」


聡は運転席の井上に向かって、ゆっくりと話した。


「日本橋に、キリンがいるでしょう。ほら、橋の上にある二匹のキリンです」

「きりん……? ああ、麒麟像きりんぞうのことでしょうか。歩道にある、二体が一対になっているブロンズ製の像でしょう」

「素材は何か知りませんが、多分それです。あれを、見たいんですよ」


ふむ……と井上はしばらく考え込み、


「日本橋の麒麟ですか。なつかしい、子どものころはずいぶんよく見ました」

「日本橋によく行ったんですか?」


ええ、と言いながら、井上は実になめらかにハンドルをさばいていた。

この男にかかると、どんなものでもダンスのように優雅になるらしい。仕事でも車の運転でも、どうしようもない片恋でも。

井上は少し甘く聞こえるテノールの声で明快に話しつづけた。


「先ほど話しましたわたくしの母は、買い物が好きでした。わたくしもよく日本橋のデパートへ連れていかれたものです。といっても、子どもですから時間のかかる買い物に耐えられるはずがない。

そこで母は、日本橋の麒麟像をエサにして私をなだめたわけです。『あと三十分待ってくれたら、麒麟にさわらせてあげる』という具合に」

「頭脳派のお母さんですね」


聡の言葉に、井上は笑った。


「もっとも小学校に上がるころには、さすがにわたくしも麒麟ではつられなくなりました。それでも母が連れていくものですから、麒麟のかわりに頭の中で母の買い物の総額を暗算で何度も計算しなおして時間をつぶしました。

そのころには人生で三番目くらいに大事なことを理解していましたから、がまんもできたんです」

「人生で、三番目に大事なこと……?」


聡が不思議そうに言うと井上は切れ長の瞳をきらめかせて、にやりとした。


「女性の買い物には時間がかかること、そして買い物を中断された女性は手にえないほど怒りくるうこと、です。機嫌きげんの悪い母を扱う困難さを思えば、三十分くらいの暗算はになりませんでしたよ」


はは、と聡も声を上げて笑った。

いつの間にか、車はビルの谷間をぬけてデパートの小さな駐車場におさまっていた。井上は車をおり、聡の座る助手席側のドアをあけた。


「ここからは、歩いても五分かからないでしょう」


そう言った美貌の男は、なめらかなホテルマンの顔つきを取り戻している。

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