第五十一話 環の柔らかい肉

白蛇のようなおばさんが藤島環ふじしまたまきを見おろすと言っても、身長が百六十センチの環とその女のあいだにはほとんど身長差がなかった。だから、きれいに見おろす形にならない。

ただにらみ合ううちに、しだいに環は先ほどの勢いを失い、おびえた小動物のように小さくなった。まるで金属音の混じる女の呼吸音に、環の柔らかい肉がそぎ取られていったかのようだ。


環の背後にいる今野哲史こんのてつしは、自分が知らず知らずのうちに眉間みけんにしわを立てていたことに気づき、つるっと顔をなでおろした。

その瞬間、今野哲史の顔は平凡な”お人よし”の表情になる。

それは、早くから家族以外とつるむことを覚えた今野が、世渡よわたりをするうちに身に着けたテクニックのひとつだ。

今野は小さな中年女性に向けて、無駄なほど明るい声で話しかけた。


「いやあ、ほんっとすごい家ですよね。あれでしょ、この家は文化財になっているんでしょう?そんな家を仮の選挙事務所として公開するなんて、松ヶ峰まつがみね先生はふとぱらっすよね」

「まつがみね、せんせい?誰よ、それ」


女が目をぱちくりさせて答えると、今野はわざと大仰おおぎょうに驚いてみせた。


「うちのです、ボスですよ。松ヶ峰聡まつがみね さとしセンセイ。もう半年もしたら、愛知二区選出の衆議院議員だ。たいしたもんですよね、あの若さで。やっぱ、お血筋ちすじでしょうかね」

「…そうね。あの子の父親も評判のいい政治家だったわよ。聡だって、やればできるのよ」


いやいや、とここで今野は芝居の見栄みえを切るように、大声でわめいてみせた。


「いくらお血筋が良くってもね、仕込しこみが良くなくちゃ、はなれません。よっぽど”ご一族”が手をかけて育てられたんでしょう」


まあね、と女はおしろいの浮いた目じりをゆるめて、ふんぞり返った。


「あの子については、あたしも”本郷ほんごう”の兄さんも、ずいぶんと世話をしたものよ。だって亡くなった紀沙きささんは、しょせんから来た人ですからね。

松ヶ峰の子供は、やっぱり松ヶ峰の人間が育てないと。それに先代の当主だった兄と聡は血がつながっているけれど、紀沙さんと聡は血がつながっていたわけでもないし―――」


そこまでいって、女ははっと口を閉じた。

話を聞いていたはずの今野はさりげなく視線をはずして、女が失態しったいを取りつくろうのを待った。

女はせわしなくせきばらいをして


「まあつまり…そういうことよ、聡は松ヶ峰本家まつがみねほんけ背負せおっていく、唯一の人間なの。

だからあなたはさっさとここを出て、聡を身軽にしてやりなさい。ここにはいずれ、聡の嫁がやってくるんだから」


女は最後に環に向かってそう言うと、足音を立てて部屋を出ていった。すぐにバタンと大きな音を立てて洋館の玄関が閉まる。

今野はふうと息を吐いて、環に向かってぼやいた。


「ほんと、よくしゃべるオバサンだな。オレ、おばさんは嫌いじゃないけど、ああいうのはいやだ」


それから今野がふと見ると、藤島環ふじしまたまきは繊細な彫刻をほどこした食堂の椅子に、ぺたりと座り込んでいた。


「私の、せいだったんですね。音也おとやさんがあんなに急いで本邸に引っ越してくるなんて、おかしいと思ったんです。なぜそう言う大切なことに気が付かないのかしら、だからダメなんだわ、あたしは」


環ちゃん、と言って今野はそっと環の肩に手を置いた。

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