第五十二話 気分転換

声をひそめてつぶやく藤島環ふじしまたまきの肩はふんわりと丸く、今野こんのが少しでも力を入れたらそのまま小さく縮んでとけてしまいそうだった。


「環ちゃんのせいじゃないよ」

「私が悪いんです。私がいつも、いてはいけないところにいるから話がこじれていく。いつでもそうなんです、あの財団法人の話だって」

「ざいだんほうじん?なにそれ」


今野が聞き返すと、環はもうそばにいる若い男のことなど忘れはてたように、小さな手で顔をおおって泣き始めた。


「私がたよりないから、紀沙きさおばさまに、亡くなった後のご心配までかけてしまった…あのお金はぜんぶサト兄さんのところへ行くはずなんです。だって紀沙おばさまの子供はサト兄さんだけなのに。そこへ私が割り込んで―――」

「ちょっとまって!オレ、環ちゃんの話が全然分からないし、まあ分かりたいとも思わねえんだけど。それが環ちゃんを困らせているってことは、伝わったよ。そうだ、ちょっと気分転換しに行こう」

「きぶん、てんかん?」


環がようやく顔をあげた。

環の平凡な顔のなかで、唯一美しいと言える目元が、ぽってりと赤くれあがっていた。今野は思わずその目じりに指を伸ばしそうになってあやうく手をとめ、環に笑いかけた。


「オレの秘密の隠れ家に連れて行ってあげる。聡さんにも音也おとやのアニキにも、ないしょだぜ?」

「…えっ?」


環が首をかしげる。

その角度がまた、ふんわりした羽毛を持つ小鳥のエナガのようで、なぜか今野の手のひらに汗をかかせた。



★★★

今野が選んだのは、松ヶ峰まつがみね邸の広い裏庭にあるしいだ。

この椎の木は高さが五メートルほどもあり、今は緑のつやつやした葉がこんもりと茂って、まるで巨大なブロッコリーのように見える。

今野は椎の木の下まで来ると、後ろについてきた環に向かってにやりとした。


「さ、登ろうか」

「のぼる?これを?」


環が予想どおりの返答を返してきたのがうれしくて、今野は勢いよく自分のスーツのジャケットを脱いで放り出した。

たちまち、今野の百七十センチの身体が太い椎の木のみきにとりついて登りはじめる。今野は登りつつ、下にいる環に向かい


「オレさ、仕事で失敗して音也さんに、めちゃくそ叱られた時には、こっそりここへ来て木に登ってんの。コイツはえだぶりが良くて登りやすいし、葉が茂っているから枝のうえまで来ちゃえば、誰にも見つからないんだ」

「あの、あの今野さん」


下から、環の困ったような声がする。今野は子猿のようにスルスルと木を登ってゆきながら


「環ちゃんもやってみなよ。そんなに高いところへ行かなくてもいいんだ。このへんの低い枝でも十分楽しい―――え?わわっ!」


今野が二メートルほどの高さまで登ったところで、たちまち環が追いつき、追い越していった。


「うそだろ、早すぎるわ環ちゃん」


今野は白いブラウスと紺色の台形スカートをはいた藤島環のふっくらした身体を見上げて、茫然とつぶやいた。

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