第五十三話 この子はもう、他の男とキスをしちゃったかな
「枝選びに、コツがあるんです。正しい枝さえつかめれば、すぐに上がれるんですよ。お忘れかしら、あたしはこの家で子供のころから育ったんです」
そう言って、環はふっくらした腕を伸ばしてひょいと枝に手をかけ、たちまち次の枝へよじ登った。
今野の目の前を、ピンクベージュのフェラガモが追い越して行く。
「そりゃねえわ、環ちゃん。反則だぜ」
「この先に、座るのにちょうどいい枝があるんです。まだあるかしら…ああ、これだわ」
環は一本の枝を見つけると子リスのようにふんわりと枝のあいだの座り、まだ下の幹にしがみついたままの今野を見て笑った。
まるで、少女のような笑い方。
藤島環が
ふっと今野の手がとまる。
「今野さん?」
「…そりゃねえわ、環ちゃん。その顔は、反則だぜ」
今野は、
環の頬は、初夏の午後の木登りでほんわりとピンク色になっている。控えめな口紅とおしろいをはたいただけの若い女の顔は、今野の知らない少女時代の環につながっていた。
今野とはまるでかけ離れた世界に生まれ育った少女の顔だ。
若い女性特有の透明な花のような香りをはじけさせ、清浄な
今野の手が、永遠に届かない藤島環がそこにいた。
今野は、知らないうちに環に向かって手を伸ばしていた。まるで初夏の夕暮れの最後のまたたきに向かって、
永遠に届かない距離。
「今野さん、あぶない!」
え?と思った瞬間、三メートルの高さまで登っていた今野の身体がバランスを失い、椎の木から落ちかけた。
こういう瞬間、人の目はスローモーションのように情景をうつすものだ、と今野は初めて知った。
環がふくふくとした手を今野に向かって伸ばし、目を見開いている様子。
それから、今野に向かって何か叫んでいる環の唇。
あのくちに、キスしたい。
今野哲史は上半身をすでに椎の木から浮かせた状態で、思った。
キスしたい、キスしたい。この子はもう、他の男とキスをしちゃったかな。
俺だけのものにしたい。藤島環の唇は。
俺だけの、もの―――。
そして今野が椎の木をつかんでいた右手さえ放してしまったとき、信じられない光景が目にうつった。
環が、
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