第三十三話 ほのかに女の影

「―――へん?」


松ヶ峰聡まつがみね さとしは、アウディの後部座席で、ととのった顔立ちをしかめて今野こんのに尋ねかえした。


「”へんな”ってどういう意味だ、今野?」

「あのね、家の中は家具も家電も全部そろっていてピカピカっすよ。ハウスクリーニングを頼んでいるみたいで家じゅうゴミひとつ落ちていない。紀沙きさ奥さまは、たまに行っていたみたいだけど人が住んでいる気配はなかったっす」


聡はもう困惑を隠しきれない。アウディを走らせている音也は、今野から何を聞いても、もうぴくりとも端麗な姿勢を崩さなかった。

あるいは、音也自身はすでに今野から報告を受けているのかもしれない。

楠音也くすのき おとやとは、そう言う男だ。

他人が知る必要のない情報は、一言ももらさない。


しかしこの場合、”他人”というのは聡のことだった。音也にとっては雇い主に当たる男にさえも、何もかも報告しない。

聡は思わずアウディの後部座席から、おのれの選挙準備をそっくりまかせている親友をにらみつけた。

そしてとげとげしい声のまま、助手席にいる今野哲史こんのてつしに言った。


「おふくろは、そんなところで一体何をしていたんだ?あれはあれで、身体がいくつあっても足りないくらいに忙しい人だったぜ」


ああ、と今野はのんきそうに続けた。


たまきちゃんが言うには、あれ、アトリエなんだそうです」

「―――アトリエ!?」


今度こそ本気で、松ヶ峰聡は大声で今野に聞き返した。


今野が言うには、その家は名東区めいとうくにある地下鉄・一社駅いっしゃえきから徒歩十分ほどの場所にある、一軒家だという。

敷地は約九十坪。二階建てに庭がついている、家族が住むような家らしい。

聡は今野の説明を聞きながら、かゆくもないのに、耳の後ろをしきりと掻いた。

わけがわからない。


「おふくろのアトリエ?いや、アトリエならうちにあるじゃないか。ほら、むかしはくらだったところを改装したアトリエが」


聡が勢い込んでそう言うと、今野はちょっとアウディの車内で身体を引いた。聡の勢いに驚いたらしい。


「いや、そう言われても俺にはわからないっす。俺なんか、なくなった紀沙きさ奥さまとは、ほとんどしゃべったこともないもんね。

ただたまきちゃんがあの家にあるを見て、ここはアトリエだって言ってただけなんです」

「たまちゃんが…うん?その家に、おふくろの絵があったのか」


まあ、たぶんねえ…と今野は言葉をにごした。


「たぶん紀沙奥さまが描いたんだと思いますよ。あの家は奥さまの家だったんだし。しかしねえ、紀沙奥さまが描く絵とは違うんだなあ。奥さまの絵って、あれでしょ、墨で描くやつだったでしょ」

「水墨画だよ。おばさんたち相手に、墨で描く絵手紙教室えてがみきょうしつもやっていたが」

黒一色くろいっしょくの絵だよね。そんでもって、花とか果物とかそんなのばっかりを描いていたでしょう。でもあの家にあったのは、色つきの人物画でした」

「色つきの、人物画?」


あまりのことに聡は混乱している。


「おふくろは、誰も知らない家でひとりでそんな絵を描いていたのか」


聡がつぶやいたとき、アウディが急ブレーキをかけた。いつもは慎重な運転をする音也にしては珍しいブレーキの踏み方で、聡は後部座席でひっくり返った。

助手席に座っている今野は窓ガラスに頭をぶつけたようで


「うわ、びっくりした。珍しいっすね、音也さんが急ブレーキなんて」

「悪いな、ちょっと他のことを考えていて」

「考えごと?音也さんが?それはそれで、気持きもりいや」


今野のふざけた声を聴いて聞いて、聡は思わずハッとした。


ひょっとして、音也は一社いっしゃの家について何か知っているのか?

亡き母の秘密に、聡の親友が関与している可能性はないだろうか。

そういえば音也は昔から、聡の母親のお気に入りだった。

松ヶ峰聡は、ぎくりと身体をこわばらせてアウディの運転席にいる十年来の親友の首筋に目をやった。


まっすぐに伸びた音也の首筋に、ほのかに女の影が浮いたような気がした。

それは。

聡の母親の影か?

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