第三十四話 あのくるぶしに触れたい

そもそも楠音也くすのき おとやは、厳格な松ヶ峰紀沙まつがみね きさが気に入るような高校生ではなかった。


音也には、有名私立校・西海学園さいかいがくえん高等部に入学する以前から、黒い噂がまとわりついていた。

高等部の入学式の前からひそかにささやかれていたのは、音也がまんまと名古屋の有名私立校・西海学園へ入り込んだ、と言う噂だ。

正確に言えば音也はある女性の”愛人”であり、それをネタに夫の理事をゆすって奨学金を得たという噂がささやかれていた。


その噂は、入学式で音也が放つ官能的な空気を目にした人間によって「真実」と認定された。

わずか十六歳の楠音也には、すでに他の少年とはまったく違う男の香りがたちのぼっていたからだ。


しかし、そんないわくつきの少年を、松ヶ峰紀沙は息子の友人の誰よりも可愛がっていた。

そのかわいがり方は、単なる息子の親友へ親近感と呼ぶにはいささか熱がこもりすぎているものだった、と聡は思う。


まさかと思うが、紀沙が一人息子の聡よりも、息子の親友・音也を信用して秘密のアトリエについて話していた可能性はゼロではない。

だとしたら、音也は聡の知らない紀沙を知っていたことになる。

ふいに、聡の短く切った髪の先まで寒気が走った。その寒気を押し殺して、聡は平然とした声を作った。


「急ブレーキなんて、運転中に何を考えていたんだ」

「選挙日程のことだ。すまなかったな」


それきり、音也はすっかり黙ってしまった。

あとは音也の正確な運転で、アウディはすべるように広い名古屋の道を進んでいった。

ウィンカーを出す音也の手、ブレーキを踏む足。

音也の左側のくるぶしは車のブレーキやアクセルを踏むたびわずかにきしむような動きをする。

高校時代にバスケの試合中に接触プレイで転倒し、くるぶしにひびが入ったのをきちんと治さなかったせいだ。

あのくるぶしに、聡はれたい。

そう考える自分を、聡は即座に打ち消す。この熱はどこにも行き先がないからだ。

だから聡は、親友に向かって普通の声をひねり出す。


「日程と言えば、今日はこのあと弁護士の三木みき先生に呼ばれている。たまちゃんも一緒だ」

「相続の件か」

「たぶんな。音也、お前も来るか?」

「おれが?」


と、音也はようやく顔を横に向けて、後部座席の聡にむかってにやりと笑った。

笑うことで音也の艶やかな美貌に香りがつき、まわりの人間は否応いやおうもなく音也にひきつけられてゆく。


「おれは行かないよ。あいにく松ヶ峰の金には興味がないんでね」


そう言って、音也がかすかに目元をゆるめた。

こんなふうに笑う音也を見ると、聡は何かに喉元のどもとをふさがれる気がする。どうしてだか、自分がこれまでに失ってきたものを、眼前につきつけられている気がするからだ。


責任もなく、身軽みがる疾風しっぷうのようだった日々。

松ヶ峰聡が”松ヶ峰聡”であることを一瞬だけ忘れられた、バスケットゴールとゴムの焦げる匂いに満ちた世界。あの日々はもう、遠い。

ふと、聡は音也に尋ねた。


「お前さ」

「うん?」

「最近、御稲みしね先生と会ったか?」


聡の問いに、一瞬だけ音也がたじろいだように見えた。

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