第2章

1「松ヶ峰聡にかかわる、遺産の問題」

第三十二話 変な空き家

いもうと同然の藤島環ふじしまたまきと、選挙のために結婚するよう秘書の楠音也くすのき おとやから切り出されて以来、さとしはなんとなく音也を避けている。


音也は平気な顔で聡の選挙準備に走りまわり、聡を連れてあちこちに挨拶あいさつへ行くのに忙しい。しかし音也もまったく平気ではない証拠に、あの日をさかいに聡と二人きりで移動することをやめた。

かわりに、どこへ行くにも選挙準備用に借りている若い無給スタッフ・今野哲史こんのてつしも一緒に連れて歩くようになった。


今野哲史はもともとは聡の政治上のにあたる参議院議員・横井謙吉よこいけんきちの事務所にいたのを、音也が頼み込んで選挙用スタッフとして借りだしている男だ。

身長百七十センチ、ほどよく肉のついた健康的で明るい今野は、ごくごく平均的な外見で愛想がいい。そのくせ頭の回転も速いので、音也は便利に使っているようだ。

そして聡は、選挙準備の実務的なことはすべて音也に丸投まるなげだから、音也が良ければそれでいい。


ときにはふざけた感じも与える今野だが、目上めうえの人や後援会の有力者にはきちんとした態度で接しているし、ときどき失敗するところがかえって愛嬌あいきょうになって、周囲の受けもいい。

聡はじろっと助手席に座る今野の後頭部を見た。

今野の髪は少し天然パーマが入っているらしく、毎朝見るたびに違う方向に少しずつ跳ねている。それもまた、愛嬌だ。


こいつが、たまちゃんに気があるというのは本当か?

たまちゃんの相手には、ちょっと軽すぎる男だが…。


聡は口を結んで考える。そんな聡の沈黙をまったく気にしない今野は


「そういえば聡さん、俺、あの家に環ちゃんと行ってみたっすよ」


と話をふってきた。

”あの家”というのは、松ヶ峰聡まつがみね さとしの母親が誰にも言わずにのこしていった、一軒家のことだ。

長年にわたり松ヶ峰紀沙まつがみね きさの個人秘書を勤めてきた藤島環ふじしまたまきでさえ、まったく知らなかったという未知みちの家だ。


環がひとりで家を見に行くといったとき、聡は危険すぎると反対したのだが、忙しすぎて同行できなかった。

それで結局は、今野が環について行ったらしい。

聡はちらりとアウディの運転席にいる長身の秘書に目をやり、ぼそりと言った。


「てっきりお前がついて行ったのかと思っていたぜ、音也」

「どうしても、時間が取れなくてな」


と運転席にいる音也が答えた。その声がいつもよりこわばっているように感じるのは聡の気のせいだろうか。

聡は頭を振り、余計な考えを吹き飛ばした。それから今野に向かい


「どんな家だった?」

「でかい一軒家でしたよ。地下鉄の”一社駅いっしゃえき”から、歩いて十分くらいかなあ。少し高台に登ったところです。新築っぽくなかったですが、中も外もキレイにリフォームしてありましたよ」

「誰か住んでいるのか?」


聡が尋ねると今野は明るく首を振った。

今野の、いうことを聞かない髪の毛がぶんぶんと左右に揺れ、好き勝手に跳ね飛んだ。


「いやあ、っすよ。しかしね、変な空き家なんですよ。環ちゃんもそう言っていた―――」

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