第三十一話 ただ、松ヶ峰聡のためだけ

音也おとや北方御稲きたかたみしねの問いに、ややいぶかしげに首を振った。北方はにやりと笑い


「ちょうどいい。残ったシガリロはあんたにやろう」


そういうとほっそりした長身のバレエダンサーは優雅に立ち上がり、思い出したようにさらにポケットから小さな革のケースを取り出した。


「初めてじゃ、シガーカッターも持っていないだろう。シガリロはカッターなしでも吸えるが、使うと香りが良くなる、とあたしは思っている」


音也がケースを手に取って中を見ると、ゆるやかな三角形の金属片がおさまっていた。

金属片の真ん中には丸い窓がついており、そこから鋭そうな刃が見える。全体に小さな傷が無数に入り、見るからに古いものだ。

音也は物問ものといたげに、北方を見上げた。

北方は、まるで男のように短く答えた。


「あんたにやるよ」

「ずいぶん、使い込まれたものですね」

「ああ、古いよ。の置きみやげさ」


音也ははっと北方を見て、それから手のひらの金属片を見なおした。

ごくっと、音也の咽喉が鳴る。


「では、これが、亡くなられた鹿島かしま先生の弟さんが持っておられた―――」

「古いものだと言っただろう。どこから来たのか、もう忘れたね」


それから北方御稲は、最後にもう一度、音也を見た。


「鹿島には話を通しておいてやる。あっちがどう動くまでは、わからんよ。どうなろうが、あんたはを助けてやっておくれ」


そう言うと、北方はかろやかにカフェを出て行った。

その姿はまるで、周囲になんの注意も払わずにただほどこしを振りまいて歩く貴族のようだった。

そして今もなお昔の男のはかない影が、古なじみの女を守るがごとく、北方御稲の身体にまとわりついている。

楠音也はうらやましげな視線で、北方の後ろ姿を見送った。


あんなふうに、と音也は思う。

あんなふうにさとしを愛せたらどんなにいいだろう。

聡の邪魔をせずに、あの伸びやかな男が行くべき場所に行くまで影のようについて行けたら。

聡の声を聴き、聡とともにり、聡がこの世界の頂点に登る時までそばにいたい、というのが音也の願いだ。


それ以上の願いを、楠音也くすのき おとやはずっと昔に封印した。

十六才の時に。

何もない静かな部屋の前で、音也と松ヶ峰紀沙まつがみね きさが約束を交わした時に。

そして紀沙の約束は今も音也の手足を縛りつけ、音也の欲情が、聡の将来と身体を蹂躙じゅうりんするのをかろうじて、押しとどめている。


あの男をなくしたら、と音也は思う。

おれなんて、呼吸している価値さえもなくなる。

楠音也が生きているのは聡のためだけだ。

ただ、松ヶ峰聡のためだけ。

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