第三十話 どんなものでも世界に対して差し出す覚悟
朝のカフェテーブルに身を乗り出した、
「まあ、気がついているのはあたしだけだろうよ。あんたは、ずいぶん慎重にやっているから。ひょっとすると案外、
ほう、と音也の口からため息が漏れた。
同時に店じゅうの音が、ふたたび音也の耳になだれ込んできた。ものういビリーホリデイの歌声。コーヒーを注文する声。エスプレッソマシンの騒音。
音也は力が抜け、そのまま硬い椅子に座りこんだ。うつむいた額に、ゆるく前髪がかかる。
長いまつげを伏せて、肩で息をしている様子は
「ありがとうございます。では、もっと気をつけなくては」
「そうまでしなくちゃ、いけないかね」
「政治家にとって、セックススキャンダルは致命傷です―――おれは自分の存在が
それを聞いて北方はかすかに笑った。
「聡も
音也はハッとして顔を上げた。
ふんわりと笑う
松ヶ峰聡へのどうしようもない恋情をかくしこむために、すでに
音也は思わず立ち上がり、それから北方に向かって
「ありがとう、ございます」
音也はかろうじて声を絞りだした。女性と
十年前に、音也が
その約束が音也を今日このカフェに連れてきて、紀沙の唯一の親友とのあいだに、またしても密約をさせている。
聡に知られてはならない約束。
音也が自由党の対抗馬を裏から手を回してつぶそうとしていることを、聡が知ったらどうなるだろう。
正義感のある聡のことだから、きっと激怒する。怒りのあまり、音也を選挙陣営からたたき出すかもしれない。
それでも、と楠音也は汗だくの身体が次第に冷えてくるのを感じながら思った。
そんなもので松ヶ峰聡の衆院選の当選があがなえるのなら安いものだ。聡のためなら、音也にはどんなものでも世界に対して差し出す覚悟がある。
あるいは憎まれることで、音也は聡の記憶に残れるかもしれない。
どんな形でもいい、聡の記憶に爪をひっかけられるのなら十分だ、とすでに破れかぶれの美貌の男はそう思っている。
音也が出口のない思念のループにおちいっている時、コトリという小さな音が目の前のカフェテーブルで鳴った。
顔をあげる。
楠音也の目の前には、白地に金文字が浮かび上がった煙草の箱があった。
ジャケットのポケットから葉巻の箱を取り出した北方は、男のようにかすれた声で音也に言った。
「あんた、シガリロはやるかい?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます