第二十九話 愛されている男は酷薄だ

音也おとやは、早朝のカフェでまっすぐに北方御稲きたかたみしねに向きなおった。

背筋を伸ばし、あごを引き、力のありすぎる目線を北方にえた。


ここは一歩も引いてはならないところだ、と思う。

たとえ眼前のしなやかなバレエダンサーのくちばしで、楠音也くすのき おとやの全身がちぎり取られようとも、一歩も引いてはならない。

なぜなら今こそが、楠音也が松ヶ峰聡まつがみね さとしのために肉も骨も投げ出すべき切所せっしょだからだ。


音也の口から、硬く低いバリトンがもれた。


「俺は、松ヶ峰聡の選挙参謀です。勝つためならどんな手段でもとります」


すると北方は、若い男のりきみを軽くするように、鳥の羽のようなほがらかさで笑った。


「それだけの男かよ、あのボンクラが」


すうっと、音也は息を吸った。


「おれにとっては、それ以上の男です。おれは松ヶ峰聡に、何もかもを賭けていますから」


音也はまじろぎもせずに、北方御稲に向かってそう言った。そののいい仕草しぐさを、北方はどこかいたましげな表情で見た。


「聡は、あんたにのかい?」


さっと、音也の目の色が変わった。かっきりした眉をかすかにひそめる。

これまで何の迷いも見せなかった広い肩を、ふいに後ろに引く。

北方の言ったことに気がつかなかったふりができるか、と音也はすさまじいスピードで計算した。


できる。

できるはずだ。

音也が北方の問いに答えるべく、口を開けた瞬間に、北方御稲のシガリロがふわっと煙をはいた。


煙が目に染みる。

音也の眼が、シガリロの煙でふさがれる。

そのすきに銀髪の冠を頭上に乗せた老練なバレエダンサーは、若い男の無防備に開いたくちに、鋭すぎるセリフを押し込んだ。


「あのボンクラは、ろくにあんたを見ちゃいないんだろう。自分のことで手いっぱいなんだ。あんたがどれほどのかを、知りもしない」


音也はこわばった表情で止まってしまった。

声が、出ない。

全身がたちまち真っ白になったように感じる。ふと見おろすとカフェテーブルに置かれた自分の指が、爪の先までふるえている。

ショックと恐怖と、これで終わりにできるという絶望的な希望がないまぜになった、多量の感情が音也の全身に満ち満ちた。


楠音也の静止したような感情を、唯一うごかせるのが”松ヶ峰聡”という名前だ。

その名前に付随する、一個の肉体。

生命力に満ちあふれた温かみのある身体。

聡の体温。

楠音也の、恋しい男。


目まぐるしく動き続ける自分の表情をおさえきれずに、音也はついはじかれたようにカフェの椅子から立ちあがった。

そのままカフェテーブルに身を乗り出し、押し殺した悲痛な声でつぶやく。


御稲みしね先生、今のはなしは―――」

「うん?」

「今の話は、先生だけのご意見ですか。それとも、もっと外にも見えているのでしょうか」


おれの気持ちは。

おれの物狂ものぐるいは。

おれの恋情は。


北方は、ついさっき自分がくちを噛みちぎったシガリロを灰皿に置いた。まだゆるく煙が立ちのぼっているが、やがて消えてしまうだろう。

シガリロは、定期的に空気を吹き込むようにふかしてやらないと勝手に火が消えてしまう。紙巻き煙草と違って、葉巻には火勢を維持するための成分が入っていないからだ。


まるで、松ヶ峰聡のように。


音也が細心の注意を払い、定期的に感情を喚起してやらないと学生時代の友人のことなんてたちまち忘れてしまう薄情な片恋のひとのように。

あっさり消えてしまうシガリロは、片方のえくぼを作るだけで音也を歓喜のうずに叩き込める男とおなじ薄情さを持っている。


愛されている男は酷薄だ、と楠音也は凄惨な美貌をカフェテーブルにうつむけて、そう思った。

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