3「断章・音也」

第二十八話 刃物のような美貌

その朝、楠音也くすのき おとやは八時まえという早い時間にカフェのテーブルに座っていた。

テーブルの向かい側に座っているのは、銀髪のバレエ教師だ。

北方御稲きたかたみしね

北方は、亡き松ヶ峰紀沙まつがみね きさのたったひとりの親友である。


六十を過ぎてもしなやかで優雅な身動きは、長年にわたるバレエ生活のたまものだろう。

糸のように細い髪をゆるくアップにした北方の姿は、音也の眼には、ほそく長い首ととがったくちばしをもつ鳥のようにうつった。

北方は百七十センチ近い長身をカフェの椅子に据え、音也を眺めおろした。

今朝の音也はチャコールグレーの安っぽいスーツを着て、同色のネクタイを締めてつつましく北方の前で頭を下げている。


「お忙しいところを、お呼びたていたしまして申し訳ございません」


音也の視線の角度はつつましい政治秘書そのものだ。これから政界にって出ようという若手政治家を、背後で支える黒子くろこの役割。

それが楠音也という美貌の持ち主がみずから選んだ、立ち位置だった。


しかし音也がこの七年間のあいだに必死になって身につけた控えめな態度すら、カフェテーブルの向かいに座る北方御稲には効果がなかったようだ。

北方は冷たい目つきで音也を見やり


「おたがい、時間がないんだ。とっとと済ませよう」


と言って、細巻ほそまきの葉巻・シガリロに火をつけた。

朝のカフェはすいていて、窓の向こうを急ぐ人ばかりがめだつ。平日の早朝だ、出勤するサラリーマンや学生がやかましい川のように流れている。

あらためて頭を下げた音也に、北方はべにひとつしていない唇から煙をはいた。


シガリロの煙は、ややげたような音也の美貌にまっすぐ吹き付けられた。

音也のなだらかな目もとはこめかみに向かって切れあがり、かたちのいい耳に続く。

無駄なものの一切ない、まされた刃物のような美貌だ。

音也はその端麗な顔の放つ力をできるだけおさえこむようにして、北方に向かって話しはじめた。


「自由党の鹿島かしま幹事長と、ご昵懇じっこんとお聞きしました」


北方は何も言わずに、弓型の眉を片方だけ上げた。音也は続けて


「次の選挙、愛知二区へ自由党から複数の立候補を出すのはひかえていただきたいのです」


音也の言葉を聞いて、北方御稲は、ヨーロッパの木彫りの人形のようにとがった鼻でせせら笑った。


さとしの対抗馬はほしくないってことか。弱気だね」

「今回に限り、松ヶ峰まつがみねおびやかすような候補者が出てもらっては困ります。自由党から次の衆院選に出る予定の候補者が一人なら、おれの想定内です。しかし余計な候補者がもうひとり出てきたら票読ひょうよみがくるってきます―――北方先生、どうか鹿島幹事長へお口添くちぞえをお願いいたします。」


音也が頭を下げる。

北方は指輪ひとつもない指で灰皿から細巻きをとりあげ、口に持っていきかけて、止めた。


鹿を、誰から聞いた?古い話だ。今じゃ知っている人間はいないと思っていたが」

横井よこい先生がご存知ぞんじでした」


ああ、と北方はふわりと細い葉巻をふかした。


「あの細イタチ、まだ現役げんえきだったね。

なあ、あたしが自由党の鹿島を知っていると言っても、もともとたいしたつきあいじゃない。だいいち、そんなみっともないことを頼めるものか」

「今でも、は鹿島先生と欠かさずなさっているとか。今年の命日も、そろそろですね」


カフェテーブルの向うで、ぎりっという低い音がした。

音也が顔をあげると、北方の薄い唇がシガリロを噛み切っていた。


「そうまでして、聡を勝たせたいかい」


北方は、六十二にしてはつやのありすぎる低い声で、いまいましそうに吐き捨てた。

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