第四十話 湧水で洗ったような、きよらかな目元

ちいさな弁護士事務所には、三木みきのやや甲高かんだかい言葉だけが響いた。


たまきちゃんが驚くのも無理はないが、七億円といってももう信託しんたくに回されている金だし、財団のものだから環ちゃん個人では一円も動かせない。そのかわり財団の運営にかかわる経費は、理事の報酬を含めてすべて信託から支払われる。環ちゃんの給料は年額で八百万っていうところかな。

ついでに言うとこの財団にはすでに事務所が用意されている。名東区めいとうくにある紀沙きささん所有の家だ」

「ああ、あの家か」


さとしが言うと、三木はちょっと驚いたような顔をして


「あの家について知っているの?なら、話が早いな。あれは紀沙さんがご実家から相続されたものでね。十年くらい前に上物うわものを建て替えさせて、それっきりになっていたんだ」


へえ、と聡はつぶやいた。


「たまちゃんが、おふくろの遺品からあの家の鍵を見つけたんですよ。あの家とえんがあるんだなあ、たまちゃん」


聡がそういったとき、環は蒼白な顔いろのままふっくらした顎を引いていた。それからいきおいこんだ様子で、聡と三木に突っかかってきた。

ふだんおとなしい環にしては珍しいくらいの勢いだ。


「でも、そのお金も骨董こっとうコレクションも本来はすべてサト兄さんが相続するものでしょう?そんな大金が私にのこされるなんて、おかしいです」


環の言葉に、三木はかすかに笑って答えた。


「たしかに大きな金額だが、でもそれは紀沙さんが実家から個人的に相続されたものだから、彼女が自由に処分できる財産なんだ。それに、正直にいえば七億と言うのは松ヶ峰家まつがみねけにとっては、問題になるような金額じゃない。それはきみにもわかるだろう?」


環はモッチリした指をひねくり回しながら、それでもまだ考え込んでいた。


「なあ、たまちゃん」


と、ここでようやく聡が口をはさんだ。

聡はゆっくりと、筋肉質の身体を三木の事務所にある古いパイプ椅子から起こした。そしておとなしい妹分いもうとぶんとむかいあった。

環のふっくらした頬が紅潮している。


そして聡は、環の地味じみで目立たない顔つきのなかでただひとつ、湧水ゆうすいで洗ったようにきよらかな目元がひどく自分の母親に似てきたことに気がついた。

ふいに心臓をつかまれたような気がする。


聡にとっては、この子だけが残されただ。

松ヶ峰紀沙まつがみね きさが赤ん坊のころからいつくしんで育て、これからは聡に責任が移ることになるたったひとりの家族だ。


たまちゃんがいる以上、少なくとも俺のやるべきことが一つはある、と聡は口元をゆるめてそう思った。


「たまちゃん、頼むよ。引き受けてくれ。俺じゃ絵のことなんて全然わからないし、管理が面倒だからと、すぐに叩き売るかもしれない。だからおふくろはたまちゃんにコレクションを預けたんだと思うぜ」


ふう、と環は小さなため息をついた。

それが答えだった。

環は目の前の聡と三木を見て、口をひらいた。

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