第三十九話 七億円

三木みきは、小さな弁護士事務所のなかで軽くせきばらいをしてから、松ヶ峰聡まつがみね さとし藤島環ふじしまたまきに向かって話しはじめた。


「ふたりとも知ってのとおり、松ヶ峰家の資産は、先代の松ヶ峰恒夫まつがみね つねおさんが亡くなられたときに、二歳の聡くんがすべて相続した。紀沙さんは先のことを見越みこして、ご自分の相続権を放棄して聡くんひとりが相続人になるように手配されたんだ。

だから今日の話は、紀沙さんの個人資産だけのことです」

「二歳の俺に何もかもを継がせるとは、おふくろは頭が良かったね。あのおふくろの血が入っていないことは、俺にとっては悲劇だよ」


聡は、茶化ちゃかすようにそう言った。

松ヶ峰聡は、松ヶ峰本家の先代当主・恒夫と愛人のあいだに生まれた子供だ。

生後すぐに松ヶ峰本家に引き取られ、正式に恒夫と紀沙の息子として養子縁組をしたために、生母の記憶はまったくない。


生母は金沢に住んで早くに亡くなったというが、聡は顔も知らないし、紀沙の息子で十分に幸福だった。

三木は聡を見て淡々と話を続けた。


「紀沙さんの個人遺産はおもに不動産と現金だ。金額は一覧表にまとめてある。不動産の査定は時価だから、少し目減めべりしているよ」

「この景気だから仕方がないですね」


聡は三木から渡された書類をぺらぺらめくった。

正直なところ、数字の羅列られつを見ても聡にはさっぱりわからない。三木は手元の書類を環にも差し出しつつ


「現金のほとんどは投資信託になっている。金額は、七億だ」

「へえ…それも、俺が引き受けなきゃいけない金ですか?」


聡が尋ねると三木は環に顔を向けて、んで含めるように話しはじめた。


「ここからが紀沙さんのご遺言でね。信託にしてある七億円を使って、財団法人を起こして欲しいというんだ。

そして環ちゃん、君がこの財団法人の主な理事に指名されている」

「ざいだんほうじん?」


聡と環は、二人そろって三木に尋ねかえした。三木は二人を見まわし、あらためて説明をはじめた。


「今は、個人でも一般財団法人の設立が可能だ。設立にあたっては特に官庁の認可は必要ないし、設立後も監督官庁はない。法的な条件さえ満たせば登記だけで設立できるんだ。ただし、設立時に三百万円の基金と六人の職員が必要になる」

「三百万と六人の職員ね…作るのは簡単だな。だがおふくろはその財団法人で、たまちゃんに何をしろっていうんです?」


聡が尋ねると、三木は薄く微笑んで環を見た。


「紀沙さんは、所有する書画骨董しょがこっとうのコレクションを財団で管理してほしいと思っておられた。そして環ちゃんがこの財団の主任理事として活動することを条件に、七億円の投資信託を遺贈しておられるんだ」

「ななおくえん…」


聡がちらりと隣を見ると、藤島環は顔を蒼白にしてつぶやいたきり、口を軽く開いている。

三木はゆっくりと、松ヶ峰紀沙が残したふたりの子供を見まわした。

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