第三十八話 環ちゃんにも関係のある事

楠音也くすのき おとやは古ぼけたビルの前で聡を車から降ろし、歩道で待ち受けていた藤島環ふじしまたまきににっこりと笑いかけてから、そのまま横井よこい事務所へ戻って行った。

まだ打ち合わせがあるのだろう。

聡は環のぽっちゃりした顔を見て、


「行こうか、たまちゃん」


とせわしなくビルの階段をのぼりかけた。目的地である三木みき法律事務所はこの古いビルの四階に入っている。

すると聡の背後から、環のためらいがちな声が追いかけてきた。


「あのサト兄さん、今日はなぜ私も呼ばれたんでしょうか」

「…さあ。おふくろの遺産の話だろ」

「でも、私は松ヶ峰家まつがみねけの人間ではありません。サト兄さんだけでいいのでは?」


聡は簡単に肩をすくめた。たしかに環の言うとおりだが、三木が来いと言うのなら、環も連れて行くだけだ。

ふしぎだな、と聡は思う。


亡くなった松ヶ峰紀沙まつがみね きさは、一人息子の聡と、遠縁にあたる藤島環を同じように育てた。しかし子供のを見るとまるで違う。

慎重すぎる環と、慎重さのない聡。

どうしてこうなったんだ?と、聡は自分と環を比べるとき、いつも首をかしげる。

聡は、ビルの入り口で眉をひそめたままの妹分いもうとぶんを見てから、ごく軽い口調で


「ま、行けば分かるよ」


とだけ言って、また階段をのぼりはじめた。今度は黙って、環もついてくる。

三木の事務所はエレベータのない古いビルの四階だ。着いた時には聡は息を切らせていた。


「まったくねえ。センセイは稼いでいるんだから、もうちょっといいビルに引っ越してくださいよ。いちいち階段で四階まで来るんじゃ、客も逃げますよ」


事務所の奥から痩身の弁護士があらわれ、聡のぜいぜいいう呼吸音を聞いてから、笑い出した。


「健康のためにもね、階段がいいんだよ。客にも好評だよ。やあ環ちゃん、久しぶりだね。こっちへ入りなさい」


三木はパーティションで仕切られた部屋に二人を入れた。三木もすぐに書類を入れた箱を持って入ってくる。

そろそろ五十代になる三木は、親子二代にわたって松ヶ峰家の顧問弁護士をつとめている。

鶴のようにとがった鼻と繊細なユーモアの持ち主で、民事専門の弁護士としては、相当そうとうに腕が立つ。

亡くなった紀沙が、法務の面で一番頼りにしていたのが三木だった。


三木は聡と環をテーブルに座らせ、自分の前に書類箱とコーヒーの入ったマグカップと、煙草の箱をそろえた。


「さて始めようか。あ、コーヒーいる?」


聡は顔の前で手を振る。


「俺はいりません。先生のところのコーヒーはやたらと濃くて、あとで胸やけがするんですよ」

「ははあ。最近豆のローストを変えたんだ。新しいのはそう強くないよ」

「先生の胃袋は二重になっているから。たまちゃん、君もやめておきな」


環は聡の隣でコロコロと笑っている。

こうやって笑っていると、藤島環も二十四才なりの明るさと愛らしさを感じさせる。

いつもこんな風に笑っていればいいのにな、と聡は妹分いもうとぶんの横顔を見やって考えた。

三木は首を振りながら書類を手に取り、聡と環の前に置いた。


「今日は、紀沙さんの相続の件で来てもらったんだ」

「じゃあ私は失礼したほうがよろしいですね」


環がさっそく腰を浮かすと、三木はやんわりと


「座りなさい、環ちゃんにも関係のある事なんだ」


と言った。

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