第三十七話 コルヌイエホテル

かしまの件…?

松ヶ峰聡まつがみね さとし不明瞭ふめいりょうな顔をしていると、隣からするっと返事をしたのが秘書である音也おとやだ。


「おかげさまで、なんとか話がとおりそうです」


聡はわけがわからず、眼をきょろきょろさせた。横井謙吉よこいけんきちはしわだらけのあごを軽くつまむようにして目をほそめた。

一瞬だけ、横井の人のいい表情が老練ろうれんな政治家らしく酷薄になった。


「ほお、どういう風の吹きまわしかな……あの人にそういう融通ゆうづうがきくとは思わんかった。よっぽど聡がかわいいか。それともほかにがあったか」


音也は黙って横井に頭を下げた。横井もそれ以上何もいわず、第一秘書の佐久さくを連れて店を出ていった。

定食屋の引き戸が閉まった瞬間、聡は隣に座る華麗な秘書を見た。


「”かしまの件”って、何のことだ?」


聡は箸をおいて音也に聞いた。音也は笑って割りばしを割り、


「ただの世間話だ」


と、そばを食べ始めた。

するとまた入口があく。店を出たばかりの佐久が顔を突っ込み、


「松ヶ峰、明日の午後に事務所に来い」

「はあ」

「オヤジがな、さ来週らいしゅう、東京にいく。明日くわしく話すが幹事長の今村いまむら先生のパーティがあるんだ。お前もむこうで落ち合え。行けばオヤジが今村先生に顔つなぎをしてくれるぞ」


聡が何か言う前に音也がすばやく立ち上がり、ぴったり四十五度に長身をかがめた。


「ありがとうございます。なにがあっても同行させていただきます」


佐久は、音也の流麗なようすをみて安心したように続けた。


「まったく、運のいいやつだ。選挙前に幹事長と会えるなんて、ひろった宝くじがあたるようなもんだぞ?」


と言ってから、入口をそっとしめた。あとから、バタバタと走っていく音がする。


「東京?」


あっけにとられて聡がつぶやく。

音也は乱れてもいない安っぽいスーツの襟をととのえて、背筋を伸ばした。


「明日くわしく聞こう。パーティの時間によっては、その日は東京泊まりだな。コルヌイエホテルを取っておくか?」

「そうだな、泊まるならコルヌイエだな」


そうつぶやきながら、ついさっき聞いた言葉の何かが聡の中でひっかかっていた。

東京…幹事長の今村先生…パーティ…コルヌイエホテル。

いや、違う。もっと不安な言葉だ。

ついさっき聡が聞いたばかりの言葉。なんだったか…。


かたんと隣の音也が箸をおく音がする。そして音也が立ち上がろうと身体を深くかがめた瞬間に、スーツの胸ポケットから銀色の金属片が落ちた。

小汚い定食屋のテーブルに、聡と音也の視線が集まる。

金属片はかどの取れた三角形で、中央に開けられた丸い穴から鋭そうな金属の刃が見えた。


使う時は刃を外へ押してすべらせ、丸く開いた窓に細い葉巻を入れて先をカットする。葉巻用のシガーカッターだ。

聡にとっては、子どものころから見慣れた北方御稲きたかたみしねのシガーカッター。

それに気づいた瞬間、松ヶ峰聡のつかみかけていた気がかりな言葉が、空中に消えてしまった。


「なぜ、お前がそれを持っている?」


音也の端麗な顔もさすがに血の気を失っていた。それでも、いつもと同じバリトンで答える。


「あずかっているんだよ」

「御稲先生のシガーカッターをか?あの人は一日に二本はシガリロを吸う人だぜ。カッターなしじゃ困るだろ」


さあね、と音也はあっさりと答えて、何の気もないようにテーブルからシガーカッターをさらいとった。


「禁煙でもするんじゃないか。行くぜ聡、弁護士の三木先生と約束があるんだろう。送っていく」



★★★

二十分後、仏頂面ぶっちょうづらの聡が車から降ろされたのは、弁護士の三木事務所の前だ。

古ぼけたビルの前には、すでに聡の妹ぶん・藤島環ふじしまたまきのぽっちゃりした姿が聡を待ち受けていた。

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