第三十六話 鹿島の件

愛知県選出の参院議員・横井謙吉よこいけんきちと、衆院選に立候補するつもりの松ヶ峰聡まつがみね さとしは、おたがいに有権者を食い合う危険性が少ない。

松ヶ峰家は代々、衆院にしか出馬しないという不文律ふぶんりつがあるからだ。

そして将来的に聡の邪魔にならないからこそ、母親の松ヶ峰紀沙まつがみね きさは、横井を聡の預け先に選んだのだった。


聡たちが事務所に入ると、横井はししとうのような顔をしわだらけにして迎えた。


「おう、来たか。待っとったんだわ、昼飯に行くぞ」


横井は聡の肩までしかない小兵こひょうで、頭はすっかり禿げあがり、耳の脇にちょっと白髪が残っているだけだ。

細長ほそながい顔のなかで、ぎょろりとした目ばかりがよく動く。なるほど北方御稲きたかたみしねの言うとおり、顔つきは”イタチ”によく似ていた。


横井は音也と聡を連れて近所の定食屋に入り、店主に軽く手をあげると、おしぼりで顔を拭いてから適当に放り出した。そしてせわしなく聡に尋ねる。


「そっちの様子はどうだ」

「何とか、動いています。来月がかり事務所開じむしょびらきで、ええと、いつだったかな」


横井は顔をしかめ


「おのれの船出ふなでの日を忘れるやつがおるか、馬鹿もん。大安たいあんを選んだだろうな」


はい、と聡のかわりに音也が答えると、横井はもう聡ではなく、音也に顔を向けた。


「事務所開きの当日くらい人をまわしてやろう。ほしいだけの人数を、佐久さくに言え。オープン日に人の出入りが少ないのはみっともないぞ」

「お願いいたします。ああ、先生のところからきていただいている今野こんのくん、よく働いてくれますよ」

「おお、あいつなあ。あれは政治屋になる気はこれっぽっちもないんだが、ひょっとするとひょっとするかもしらん」


横井は、少しうれしそうに音也を見て笑った。

そして運ばれてきたそばに、大量のとうがらしをかけて割り箸を割り、目の前の二人にも食べるようにけしかけた。


「おまえらも食え、食え。特に聡、お前は選挙戦が始まったら、食えんし寝られんからな。今から肉をつけとけ。あんまり細っこすぎるのもイメージが良うないぞ」

「はあ。努力します」


聡はぼそぼそと答え、ざるそばに箸を伸ばす。隣に座る音也は、ぴしりと背筋を伸ばしたままだ。

横井が一口、二口食べたところで、入口ががらりと開き、あわてて男がひとり入ってきた。横井の政策秘書である、佐久さくだ。


「先生、こんな時間に飯なんか……おっ、松ヶ峰か。久しぶりだな」

「佐久さん、お疲れさまです」


聡はハンカチで口をぬぐった。

四十代半ばの佐久は、横井事務所を統括とうかつしている第一秘書だ。横井の事務所に出入りする政治家希望の若者にとっていわば兄貴分といえる。


「うん。お前もいよいよだな松ヶ峰、がんばれよ。先生、飯は途中にして事務所に戻ってください。これから党本部で打ち合わせでしょう。遅れますよ」


飯を食う時間もないのか、とぼやきながら、横井は席を立った。

せわしげに歩く途中、ふとテーブルについたままの聡と音也に目をやって尋ねた。


「そう言えば、鹿はどうなった?」

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