2「松ヶ峰聡に残された、鍵と結婚問題」

第十五話 白日のもとの影のように

その日、松ヶ峰聡まつがみね さとしは名古屋市内の覚王山駅かくおうざんえきで地下鉄をおりた。駅から地上にあがると、まぶしい日の光が聡の眼を刺す。

聡は形の良い唇をとがらせて


「四月なのに、もう暑いな」


とつぶやいた。それから日泰寺にったいじ・覚王山の参道さんどうの坂道をゆっくりと上がり始めた。

今日の聡は一人だ。秘書である楠音也くすのき おとやは事務所の無給スタッフである今野哲史こんの てつしと、なぜかたまきを連れて不動産屋へ行っている。

聡の選挙事務所用の土地と建物を押さえてしまうためだ。


何もかもが、聡をいてきぼりにしてすさまじいスピードで進んでゆく。

その大半は有能な政治秘書・楠音也の手によって、わずかの無駄もなく運営されていた。

聡の身体と感情はすべて置き去りにして。


聡はため息をつきながら、参道を上がってゆく。

参道と言ってもまっすぐなアスファルトの車道と歩道の、ゆるく長い坂が続くだけだ。道の両脇には小さな店がぎっしりと並んで暖簾のれんをはためかしていた。

聡は途中の店に入り、ちいさなかわらせんべいを買う。

こんなものが、これから聡が会おうとしている女性・北方御稲きたかたみしねの好物なのだ。


参道を上がりきったあたりで聡は道を回り込み、今度はななめにくだる坂を降りはじめた。

せまい道を、車がせわしなくすれ違っていく。

日泰寺にったいじの参道から一本なかに入った坂にめんして、大きな一枚ガラスの窓をしつらえた建物がある。

ガラス越しに女性たちのレオタード姿がぼんやりけて見えた。

北方御稲のバレエスタジオだ。


この若い女性ばかりがいるバレエスタジオには、聡は子供のころから母に連れられてよく来た。スタジオには看板も何もないが、聡はこのスタジオの入り口に立つと、いつも建物の中から吹きつける華やかさにおじけづく。


なぜなら北方御稲のスタジオには、昔からどこまでもバレエに対して真剣な人たちが集まっているからだ。

めざすものや求めるものが、白日はくじつのもとの影のようにクッキリと見えている人間だけが入れる”別天地べつてんち”なのだ。

聡のようにしじゅうユラユラと水草みずくさのように揺れてばかりいる人間にとっては、おじけづくような空間だ。


とはいえ、今日の聡は藤島環ふじしまたまきの“使い”である。

環に言われたことを北方御稲きたかたみしねに尋ねて、答えをもらってこなければ環からうらみがましく、じっとにらみつけられる。

環の無言の視線は、あれはあれで聡にはけっこうこたえるものなのだ。


聡は大きく息を吸い込み、金属の手すりをつかむと少しだけ、すりガラスのスタジオドアを開いた。

ドアを開けた途端、北方御稲のキレのいい手拍子てびょうしとぶっきらぼうな指示が、稲妻のように聡の耳を打った。


「ロン・ド・ジャンブ・ア・テール、アン・ドゥオール、アン・ドゥダン、フォンデュ、フラッペ。だめだめ、身体の軸がずれている。最初から!プリエ、バットマン・タンジュ、ジュテ……」


聡がドアを開けたことであきらかに部外者の気配がしても、レッスン中の生徒たちはふりかえりもしない。

ただ黙って鏡の横のバーに手を添え、御稲みしねの鋭い言葉と正確な手拍子にあわせて、優雅な動きを繰り返している。

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