第十六話 うつりの悪い鏡

レッスン場のはしにいる北方御稲きたかたみしねは、ついさきほど亡くなったさとしの母親と同年の六十二才。

バレエダンサーらしく長い首をまっすぐに立て、銀髪を小さくまとめた頭を動かさず、たたきつけるように手を叩いている。そのリズムは信じられないくらい正確だ。

亡くなった松ヶ峰紀沙まつがみね きさ


『御稲の手拍子はメトロノームと同じだ』


とよく言っていた。

バレエ教室の生徒に向かって手をたたきながら、御稲は聡に視線もくれずに


「上で待ってな、聡。バーレッスンがすんだら行く」


聡はだまってうなずいた。そしていったん外へ出て、建物のわきの細い階段を上がる。この建物は三階建てで、一階と二階がバレエのレッスン場、三階が御稲の自宅になっている。


聡は藤島環ふじしまたまきから渡されていた合鍵で、御稲の自宅に入った。

キッチンに手みやげ代わりのかわらせんべいと、沖縄の泡盛あわもりの瓶を置いた。泡盛は“まぼろし”といわれる沖縄の離島・波照間島はてるまじまで作られている“泡波(あわなみ)”だ。


”泡波”はもともと作られている数が少なく、ほぼ島内で飲みつくされてしまう貴重な酒だ。かすかに塩分を含んだ水を使っているせいか、より香りと甘味が強いように聡は感じる。

多少くせのある味かもしれないが、北方御稲は蒸留酒に目がないので上手く飲んでしまうだろう。


「酒好きのバレリーナなんか、聞いたことねえよ」


聡が小声でぼやいたのと、音もたてずに北方御稲が自宅に舞い戻ってきたのとがほぼ同じタイミングだった。

振り返らなくても、聡にはそこにいるのが御稲だと分かる。彼女が部屋に入ってきた瞬間、空気が薄い金属の層を重ねたかのように、軽やかに振動するからだ。


「お前、いそがしいんだろう聡」


という北方に、聡は答えた。


「ええ、そりゃ忙しいですよ。本郷ほんごうの叔父さんと、俺の有能な秘書がせっせと予定を詰め込んでくるからね」

「準備は、すすんでいるのかい」


聡は御稲に広い肩をすくめてみせた。


「進んでる、と思いますよ。うちの秘書は手ぎわが良いんだ」

「ふうん…なるほどね、あの男ならね」


御稲はそうつぶやき、じろりと聡の全身を眺めてから、とても六十二才とは思えないような身動きで隣の部屋に消えた。

次に戻ってきたときには、手に細い茶色の煙草とシガーカッターが握られていた。

そしてふんわりと蝶のようにベランダに出ると、そこに置かれた鋳鉄製の椅子に座り、煙草の先を小さなギロチンみたいなカッターで切り落とした。


北方御稲のしなやかな指が、細い茶色の煙草に銀の吸い口をつけた。御稲は煙草を無造作にくわえて火をつける。

煙草に火が付くまでに、時間がかかった。御稲の吸っているのが、紙巻きたばこではなく細い葉巻である”シガリロ”だからだ。

ふわ、と御稲の口から煙が立ちのぼる。


「葬式からあと、たまきと会っていない。あの子はどうしている?」

「何とかやっていますよ。ああ見えて、気丈な子だから」


聡も御稲に続いて、ベランダに出た。

北方家の三階のベランダからは眼下にこんもり茂った木々と、そのあいだに隠れるように小さな池が見える。

真下ましたに見える土地は北方家の敷地ではなく、家の南側にある古い料亭だ。ベランダから大きな木の枝越しに、古くしつらえた料亭の広い庭が見渡せるのだ。


風のない春の午後、小さな池のおもてがうつりの悪い鏡のようにぎらりと光っていた。

聡の前で、もういちど御稲みしねの吸うシガリロの煙が流れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る