第二十話 聡はあの唇を知っている

松ヶ峰家まつがみねけの裏庭でたまき音也おとやと一緒にいる若い男は、今野哲史こんのてつしという。

今野は、さとしの選挙準備用に師匠筋ししょうすじの国会議員・横井謙吉よこいけんきちの事務所から助っ人として借りている若い男だ。


今、ものかげに隠れて三人を見ている聡にも今野の明るい笑い声が聞こえる。

身長百七十センチくらいの今野は、百八十四センチの音也と並ぶとやや小さいように見えるが、環とは十センチほどの身長差がある。

年はたしか環と同じ二十四歳のはずだ。


今野は聡の事務所へ来てから一カ月ほどしかっていないが、とにかく底抜そこぬけににぎやかな性格だ。その明るさが、選挙まぢかの聡の事務所に陽気さをもたらしている。

聡はそれが気に入っている。


今もひとしきり笑える話を環に披露ひろうしたところのようで、おとなしい環がぽっちゃりした手で口もとをおさえ、笑いをこらえている。

めずらしく音也も笑顔を浮かべて、それでもたしなめるように年若いスタッフに言った。


「わかったから。だからコン、もう少し静かにしゃべれ」

「そういってもさあ、小さい声だと聞こえないでしょ」

「声の大きさの問題じゃなくて。おまえの話し方がうるさいっていうことだ。環ちゃん、今日は付き合ってくれてありがとう。助かったよ」

「私で、お役に立ちましたでしょうか」


環はまだほのぼのとした笑いをふっくらした頬に乗せたまま、音也に答えた。

音也は聡の高校時代からの親友だから、松ヶ峰家の全員と仲がいい。いつもなら、男とはろくに話せないほどおとなしい環でさえ、音也とはふつうに話す。

あるいは、環も音也に憧れているのかもしれないが。

聡が複雑な視線で妹分を眺めていると、今野がまたバカに明るい声で


「かーっ。音也さん、これですよ、これ。環ちゃんはこたえにひんがあるんだよね。今どき、こんなコいませんよ。ホントお嬢様って感じ」


今野のチャラいセリフに、環は真っ赤になった。それを音也がちらりと見た様子が、聡のなかに引っかかる。

この視線を聡は見たことがある。

しかし、どこでだろう?


聡が考え込むうちに、こちらに気づかない音也と今野は、今日見てきたばかりの事務所用の不動産物件について話し始めた。


「それよりな、コン。あの物件はどう思う」

「悪くないと思いますよ。ちょっと狭い気がするけど、すぐ裏に広い駐車場があるし」

「狭いか」

「でもね、選挙事務所では広さよりも立地を優先しろって、俺はいつも佐久さくさんに言われます」

「佐久さんが言うなら、そうだな」


音也はほっそりしたあごを骨の長い指でなでながら、そうつぶやいた。

その指先が無意識のように音也の薄い唇をひっかくのを見て、聡は身体じゅうがかっと熱くなる。


聡は、あの唇を知っている。

あの唇しか、知らない。


聡が食い入るように見つめるうちに、音也の口が開いて、環に話しかけた。


「環ちゃんは、あそこをどう思った?」

「私なんて、選挙のことは何もわかりません。でも地下鉄の駅に近くて、スタッフの方も出入りしやすいんじゃないでしょうか」

「環ちゃんがそう言うのなら、決まりだな」


環は小さな目を見開いて、音也に言った。


「サト兄さんの意見は聞かないんですか」

「聡なんかどうだっていい。どうせ選挙が始まったら、あいつは事務所にいる時間なんてないんだ。むしろ事務所では環ちゃんが先頭に立ってくれないと」

「私なんて」


と環は顔を赤くして手を振り、音也にそう言った。その姿を見て、今野がからかうように


「一生懸命になっちゃって。可愛いねえ」


そう言った今野の脚を、音也が蹴りつける。


「痛ってえ!なんすか、音也さん」


じろりと、音也は百八十四センチの長身から今野を見おろした。

聡の背筋がぞくっとした。

音也の目つきは、ベジタリアンが牛肉のかたまりを見るときのように冷たく、無機質だ。

その目つきに、離れて三人を見ていた聡さえも寒気を感じる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る