第二十一話 唯一無二の切り札

松ヶ峰聡まつがみねさとしは、自分も音也おとやから同じような目つきで見られたことを思い出す。

ひょうのために肉も骨も売れ、と音也に言われた時だ。

そしてあの時、音也にさげすまれるように見られながら、自分の身体が否定しようもないほどに反応したことを聡は思い出す。

ぞくっと聡の身体にふたたび暗い歓びの影が落ちた。

そのとき、聡に見られていると気がついていない音也が厳しい声で今野にいった。


「コン、おまえ、紀沙きささんが亡くなったのをいいことに、たまきちゃんに手を出すなよ」

「…なんすか、それ。かわいい女の子を見たら興味を示す。礼儀でしょ」


音也が、今度は遠慮もなく今野こんのの後頭部をひっぱたいた。

隣にいる環はもう、目を丸くして音也を見ている。

今野が大仰おおぎょうに頭を抱えて叫んだ。


「痛ってぇ!ああ、じゃあもうなんにも言いません、声も出しませんよ!まったく、音也さんだって環ちゃんの兄貴でもないくせに」

「ここにいるのが聡なら、おまえはどうされても文句は言えないぞ」

「わかってますよ。ちぇっ、他の人が見たら音也さんが環ちゃんに惚れてんのかと思いますよ」


ばーかと言い捨てて、音也は車の鍵を今野に放り投げた。


「車を裏にしまって来い。すんだら事務所で打合せするぞ」

「ちぇっ。パシリだな」


今野の言葉に音也は両手をパンツのポケットに突っ込んだまま笑った。あたりが輝くような笑いだった。

それから表情をあらためて今野に向かい


「他のやつじゃない、松ヶ峰聡のパシリだ。光栄に思え」


今野がにぎやかにぶつぶつ言いながら屋敷裏のガレージへ消えると、音也はちらりと環を見た。

環が不思議そうに答える。


「…なにか、音也さん?」

「いや、何でもない。だけど環ちゃん、できるだけコンとは二人きりにならないで欲しいんだ」


環は一重ひとえまぶたのぽってりした目から、じっと音也を見つめ返した。


「サト兄さんが怒るからですか」

「いいや。きみが、俺にとって唯一無二ゆいいつむにだからだ。えのきかない切り札だからだよ」


そう言うと、楠音也は端正な口元をわずかに曲げた。

口の中にいやな味がしたように、音也の顔がゆがむのを聡は遠くから見ていた。

気に入らない。

音也のあの顔つきは、松ヶ峰聡の気に入らない。


なぜなら、あの顔は音也が凶悪なことを考えている時の顔つきだからだ。

楠音也が本気になったら、どんなひどいことでもやる。

それは音也とはもう十年の付き合いになる親友の聡が、一番よく知っている。



★★★

大正時代に建てられたと言う洋館・松ヶ峰まつがみね邸の風呂は、今どき珍しい琺瑯製ほうろうせい猫足ねこあしのバスタブだ。

風呂場そのものは、とっくの昔にさむがりの松ヶ峰紀沙まつがみね きさが最新式のシステムバスに作り替えさせたが、バスタブだけは琺瑯のものを古いまま使っている。


いつ頃あつらえたバスタブなのか、子どもが三人入っても足りる広さがある湯船に、いま松ヶ峰聡まつがみね さとしはたっぷりの湯を張ってつかり、浴室の天井を眺めていた。

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