第二十二話 どうしようもなく恋してる

わずかに黄色味をおびびた浴室の明かりの中、湯気がうずを巻いてのぼっていく。シャワーで洗ったままの松ヶ峰聡まつがみね さとしの頭から、水滴が落ちた。

夜の十一時。だだっ広い洋館はシャワーのしたたりが聞こえそうなほどに静かだ。

建物が大通おおどおりから奥に引っ込んでいるのと、玄関前に広く場所がとってある間取まどりだからだろう。


聡がこうして目を閉じていると、換気のファンが回る音しかしない。そして石鹸とシャンプーの匂い。聡は顔をしかめると、鼻をひくひくさせた。

何か、においがする。聡がよくなじんだ好ましい匂いだ。

しかしその香りは、どこか聡の脳髄を直接かきまわすような不穏ふおんな感じもある。


しばらく鼻をひくつかせた後、聡は、クソとうめいて、湯の中に沈んだ。


「音也の“デューン”じゃねえか」


草木を思わせるような柔らかい香りは、聡の親友であり、今は政治秘書でもある楠音也くすのき おとやが高校生のころから使っていたトワレだった。

デューン プール オム。

メンズでありながらふんわりしたグリーンノートが主張しすぎず、女性の愛用者も多い香水だ。


聡は優しげなトワレの香りを跳ね飛ばすべく、湯を乱暴にまきちらしてバスタブから出た。

いい加減にタオルで髪と身体を拭き、風呂場をでて脱衣所の壁一面に設置されたみ式戸棚の前に立つ。聡は戸棚からパジャマにしているスウェットを出して、着た。

そのまま、鏡をじっと見る。


松ヶ峰聡の身体は、見た目よりもぎっしりと上半身に肉がついている。学生時代にバスケットに熱中したせいと、早くに亡くなった父親も体格のいい男だったから、遺伝もあるのだろう。

反対に、楠音也の身体は見た目以上にしなやかでスピード感がある。


音也も高校時代には聡と同じバスケ部で、スリーポイント・シュートの名手として県内に知られていた。

ムチのようなほっそりした長身から放たれるシュートは、寸分すんぶんくるいもなく敵チームプレイヤーの頭上を超えてリングに入って行った。ともにプレーをしていた聡は、リバウンドを拾う必要さえなかった。

あのころから、音也は突出した男だった。

今は、聡がどうしようもなく恋している男。


「くそ」


ともう一度つぶやいて、聡はひげを剃ろうとあごを撫であげて、鏡の横の棚を開けた。シェービングクリームやたまきの使っているローションに交じって、薄く平たい瓶が並んでいる。

銀色の半球がふたになっているトワレの瓶。

音也のデューンだ。


聡は今でも、このにおいをかぐと高校の体育館を思い出す。

ほこりっぽい空気と、バスケットボールのゴムの匂い。ワックスのきいた床にバスケットシューズが鳴る音。ボールのはずむ音。

そして、くだらない冗談に笑いころげる自分と音也。


なんでこうなったんだ。


聡は思わずトワレの瓶を握りしめる。

何がいけなかったのか、どこで間違ったのか。

それが分かればそこまで戻って、その瞬間をやり直したいと思う。そこから自分を引きずり出して、何もなかったことにしてしまいたい。


それができればどんなに楽か。

ここまで音也に溺れそうになっていても、聡にはまだ理性が残っている。だから音也のいない生活を考えることは、できる。

選挙がすんだら音也にしかるべき金を払い、東京へ送り返す。それが当然で、そうすべきで、そうしなければいけない。


しかし聡は深夜のバスルームでトワレの瓶を握りしめたまま、うめいている。

瓶をひたいに押しつけ、壁面にもたれて座りこんだ。


音也のいない日々など、考えたくもない。あの長身に食らいついて、体温をむさぼりつくしたい。

聡の湯あがりの額に、瓶の冷たさがしみこむ。


「かあさん、助けてくれ」


思わず知らず、聡はそうささやいていた。


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