第二十三話 遺産の家

風呂から上がったさとしが広い松ヶ峰家まつがみねけの廊下を歩いていると、屋敷の奥にある家族用リビングに明かりがついていた。


この屋敷は大正時代から松ヶ峰家が代々、修繕して修繕して使い続けている古い洋館だ。屋敷の二階には南端にある浴室から北端の家族用リビングまで、一本の寄木細工よせぎざいくの廊下が走っている。

”リビング”と言ってもオープンスペースにラグを敷いただけの場所だ。椅子とテーブルとテレビが置いてあり、一階のキッチンとは裏階段で直接つながっている。


飲み食いがしやすく、ゴロゴロできるソファがあるので聡が勝手にリビングがわりにつかいはじめ、いつしか亡くなった母親の紀沙きさたまきも使うようになった。

そして今は、同居している聡の秘書・楠音也くすのき おとやもよくそこにいる。


聡がリビングエリアにそっと近づくと、古くなったソファに音也が座っているのが見えた。向かい合う形でたまきがちょこんと座っている。

今夜の音也はややルーズな黒いコットンセーターにデニムをはき、開いた襟もとから長い首を見せていた。


音也のシャープな顔の線とバランスのとれた細身の身体は今もするどく引き締まり、明日にでもモデルの仕事に戻れそうだ。

聡はふと、目を細めた。

音也の身体は、モデルで稼いでいた学生時代より今のほうが一層いっそう、色気がついてきた。


そこにいるだけで、聡をまどわす親友。

立ち止まって飢えた目つきで音也の身体を見つめていた聡に、音也の低いバリトンが聞こえてきた。


「紀沙さんの遺産のいえを見つけたって?よくやったね、環ちゃん」


聡に背中を向けているために音也の表情までは見えないが、環に対しては穏やかな顔をしているのが伝わる。

昔から、音也は藤島環に優しいのだ。


まさか、こいつはたまちゃんに惚れている?

松ヶ峰聡は涼しげな目元を凶悪にゆがめて音也を見た。

身体の底にふつふつと泡立つものを感じる。

そんな聡に気づかないまま、音也は女性がうっとりするような低い低いバリトンで続けた。


「いったいその家はどこにあったんだ」

名東区めいとうく一社いっしゃです。御稲みしね先生からお聞きした”隠し金庫”にガス料金の請求書とパソコンのメモリがあったんです。請求書の封筒の宛名から、住所がわかりました」

「パソコンのメモリ?何のデータが入っていた?」

「家計簿です。この十年間の支払金額がすべて入っていました。変わった家計簿ですよ。ガスや水道の項目はあるのに、食費や被服費はありません。固定資産税は毎年納付されています」


音也はビールの缶を置いて、腕を組んだ。


「つまり、ほんとうに紀沙さん個人の持ち家ってことか」

「ハウスキーピングも委託されていたようです、領収書がありました。庭師への支払い記録も見つけましたから、マンションではなく一軒家のようですね。

あの音也さん、私この家に一度行ってみようと思うのですけど」

「そうだね」


と、音也は考え込んだ。しばらく黙って二重ふたえまぶたの美しい目じりを指でなぞっていたが、やがて口を開いた。


「聡に相談したほうがいいな」

「とうとう俺を思い出してくれたか。ありがとうよ、音也」


聡はソファに座って話し合う音也と環の背後からぬっと顔を出した。自分の声がとげとげしく聞こえるのはひゃく承知しょうちだ。

何も言わずに、聡はどさりとオットマン付きの長いすに座った。


スウェットの襟がずれて、首の後ろにひんやりした空気が当たる。思わずぶるっと身体が震えた。


「なあ、たまちゃん。その家に行くのはいいが一人じゃだめだ。いつ行くつもりだ?」

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