第十九話 喉笛に、食らいつきたいほどに恋をしている
「御稲先生が、そういう答えを返すってことは、あの鍵について何か知っていますね」
とっさに聡がそこまで踏み込むと、御稲はいまいましそうに舌打ちをした。
「お前に切り込まれるとは、あたしもなまったもんだ」
「じゃあ大当たりだ。どこの鍵なんです」
「知るかよ、あたしだって
御稲はすっかり短くなったシガリロをゆっくりとテーブルに置いた灰皿に乗せた。その指の先で、春の光が
ふいに北方御稲がまったく関係のないことを話しはじめた。
「お前、紀沙とあたしが東京の大学に行っていたことは知っているだろう」
「ああ、聞きましたよ。死んだじいさんに
「押し切ったと言っても、まあ遊び半分さ。あたしはそれ以来東京暮らしだったが、紀沙は卒業と同時にこっちへ戻った。その時にさ」
御稲は明るいベランダの上で、ゆっくりと組んでいた足をほどいた。ペディキュアされたつま先が、優雅にリズムを打つ。
「紀沙が東京に持って行って、そのまま持って帰ったものが一つだけある。ウェブスターの辞典だよ」
「ウェブスター…ああ、あの枕になりそうなくらい、ぶ厚い英英辞典のことかな」
「あれを開けてみな。中がくりぬいてあって紀沙は金庫がわりにしていた」
聡はうへえ、とうめいた。
「まさかほんとに、おふくろがへそくりを?」
「あいつはね、意外と秘密の多い女なんだ。おっと女だったというべきか」
しかし暗い表情は四月の陽光の下でたちまち魔のように消えてしまい、御稲は丁寧にシガリロから銀の吸い口をはずして、そっと指でぬぐった。
話は終わった、ということだ。
聡は立ち上がり、
「じゃあ、たまちゃんにそのウェブスターの辞書を探してもらいますよ。隠し金庫の中に、
そう言って聡が辞去するのを、御稲は苦虫をかみつぶしたような顔つきで見ていたが、聡がベランダから部屋にタイミングでごくごく低い声でつぶやいたのが聞こえた。
「まったくね。あれじゃあ、あの子も苦労するだろうさ。どれほど”切れ者”だろうがな」
ふと、聡は足ををとめた。
”切れ者”?
御稲の言った”あの子”とは、紀沙と御稲がかわいがっている
聡のまわりにいる”キレモノ”は、美麗かつ有能な政治秘書である
まさか、音也と御稲先生が聡の知らないところで二人きりで会っていた?
いったい、なぜ?
聡の知らないところでさまざまなことが起きる”予兆”だけが無数に立ち並んでいる気がする。
いつかすべての予兆が足並みをそろえて、松ヶ峰聡に向かって襲いかかってくるようだ。
松ヶ峰聡は肉の厚い肩をぶるっとふるわせた。
きっと、聡を襲う嵐のど真ん中にあの美しい男がいる。
聡がその
★★★
聡が地下鉄で松ヶ峰家に戻ると、屋敷の裏からにぎやかな声が聞こえた。
ひょいとのぞいてみると、ちょうど
三人は明るく笑いさざめいている。そこだけが、重厚な松ヶ峰本邸から浮き上がるように、やわらかく振動していた。
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