第百四十九話 「”どうしよう、泣けてきた。昨日は、続いている”」

城見龍里しろみりゅうりは百八十センチの長身をかがめて、コルヌイエホテルのライブラリーラウンジでしきりと上着のポケットを叩いた。

うつむいている目じりにしわが寄っている。

困っているというより、照れているような表情だ。

たまきの第一印象では城見はとても若く見え、とても六十二才の男のようではなかった。もっと少年のような、なぜかひどく照れている若者のようだ。


「チケット…おやおや、どこだろう」

「まあ、お帰りの飛行機のチケットが見つからないんですか?」


環が驚いて尋ねると、城見はちょっと笑った。


「そうなんだ。あれをなくすと香港ホンコンのスタッフに怒られる。なにしろ急に取ったチケットだから正規料金で買わされたんだ」

「しっかり探されたほうがいいですわ」


環はそう言って、自分も城見の足元を眺めてみた。

城見は、黒い洗いざらしのデニムパンツに金具がふたつ付いてる修道僧のような革靴をはいていた。

やがて、環は男の座っていた椅子の下でチケットを見つけた。

しゃがみこみ、拾い上げて男に渡す。


「ありがとう。今夜乗る飛行機だから、くすと面倒なんだ」

「今夜?何時です?」

「深夜ゼロ時。だからあまり時間がなくて。すまないね」


城見の言葉に環はゆっくりとかぶりを振った。


「こちらこそ、お忙しい時にお時間を取っていただきましてありがとうございました。あの、ここでお話しますか?」


環がたずねると、男は急にわれに返ったようにまわりを見渡した。


「そうだね。ここだとちょっと…少し、歩いてもいいだろうか。このホテルにはたしか大きな日本庭園があったと思うんだが」

「はい」

「行ってみよう。日本は久しぶりなので、日本らしいところを歩きたいんだ。あ、その前に本をしまって―――」


そう言うと男は本のページを開きなおし、しおりがわりにチケットを挟んだ。それからふと、誰に言うでもなく


「”どうしよう、

泣けてきた。


昨日は、続いている”」


とつぶやいた。環がたずねる。


「詩ですか?」


うん、と言って男は大きな手で本をしめした。


「梶谷和恵(かじたにかずえ)、『朝やけ』という詩集でね。去年の暮れに出た本らしいよ」

「日本の本ですか」

「そう。意外かな」


男が笑いながらそう言う。環は男とともに小さなライブラリーラウンジを出ながら、微笑んだ。


「城見さまは、長いあいだ日本を離れていらしたとお聞きしたので」

「ああ。日本を出てもう二十四年になる。だがこの本は、紀沙きさが最後に送ってくれた本なのでね」


紀沙、という名前に環の足がぴたりと止まった。城見の長身を見上げる。


「おばがその本を、あなたに送った?」

「ああ」

「でも、その本は去年出版されたものでしょう」

「そうだね」

「では、おばはいったいいつあなたに本を送ったのですか。おばが亡くなったのは、今年の三月の初めですが」


城見は柔らかな笑顔のまま、しかし目じりにせつない色をたたえて答えた。


「本が届いたのは二月の初めだ。それが最後になった。さあ、日本庭園へ案内してくれ。ここはちょっと人が多すぎるね」


環は混乱したまま城見の先に立ってコルヌイエホテル自慢の広大な日本庭園へ向かった。

環の中で、大きな物が散らばるような音がしている。


紀沙おばは香港にいる昔の恋人とずっと連絡を取っていた。

名古屋市内に秘密のアトリエを持ち、誰にも見せない絵をずっと描いていた。


いったい、なぜ。

ここまできて、松ヶ峰紀沙まつがみね きさの秘密はより一層深くなったようだ。

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