第百四十七話 恋人の背中

「もう少し俺を頼ってよ、たまきちゃん」


あざやかな初夏の日本庭園を12階のホテルのスイートから眺め下ろしつつ、今野こんのはしっかりと藤島環ふじしまたまきを抱きしめた。

今野の声は、硬くこわばっている。

いつもはどここまでも明るく軽くてまわりの人を楽しませる声なのに、いま環の頭上から聞こえる声は切羽せっぱつまって息苦しいようだった。


今野の温かい唇が環の頭のてっぺんをさぐっている。まるで、そこにたどり着けばもっとたやすく呼吸ができるというように。

酸素もなく深海でもがく人のように。

環はそっと身体を後ろに倒して、今野の唇が環の頭のてっぺんに届きやすくしてやる。すると今野はたちまちポイントを見つけ出し、何かをそそぎ込もうとするかのようにキスをした。


今野の温かい体温が環に伝わる。そして唇が当てられた場所から、今野の言葉が直接、環のなかへ入ってくる。

まだ少し高い音の残る少年のような声だ。

若い若い、男の声。


「俺なんか、聡さんたちに比べるとまだまだガキで君から見たら頼りないかもしれない。だけど、君が困っているときに何もかもを放り出してかけつけるのは、俺だ。

聡さんでも音也のアニキでもない―――俺だよ」


環がすこしだけ身体の力を抜くと、今野は環の頭のてっぺんに唇をつけたまま、もう一歩ふみだして恋人の背中にぴたりと身体を寄せた。

環が、安心して寄りかかれるあたたかい身体が背後にあった。

今野の鼓動を背中に感じながら、環は口をひらく。


「あの、今野さん。私のしようとしていることは、おかしくないでしょうか。

何十年も前に別れた女性が亡くなったからと言って、初めて会う人間から形見かたみを渡される城見しろみ監督の気持ちはどうなんでしょう」


うーんと今野はうなりながら唇を放して、環の頭の上に軽くあごを乗せた。

環の身体は、今やすっぽりと今野の腕の中にあった。

世慣よなれぬ環を、せいいっぱい守ってくれる腕だ。


「まあ、変わっていると言えば変わっていることかもしれない。でもさ、城見監督だって、べつに君と会う義理ぎりはないわけだよ。断ってもいいのに君と会うと言うことは、監督はまだ紀沙きさ奥さんへ気持ちを残しているってことなんじゃないの?

少なくとも環ちゃんに向かって、形見かたみの時計を突き返すつもりはないと思うよ」


だったらいいけれど、と環は思いながら、それは口に出さずに黙って恋人の背中にもたれた。

ふと、自分はいつもずっと誰かに守られて生きてきたのだと思う。

紀沙に、さとしに、音也おとやに、御稲みしねに守られてきたのだとあらためて思う。


だとしたら今度は環が誰かを守ることで、少しずつ何かを返していく時だ。受けた愛情は、愛情で返すのが環の知る世界のルールだ。

まずはこの人を大切にしよう。

環はそっと今野の腕を撫でた。今野が少しだけためらい、それから環の顎に指をあてて上向かせ、そっと唇をかさねてきた。


「俺、城見監督と会う時についていこうか?一人じゃこころぼそくない、環ちゃん?」


今野はそう尋ねたが、環は笑って首を振った。


「大丈夫です。心配してくれて、ありがとう」

「心配に決まっているだろ。俺の大事な女の子じゃん」


ぎゅっと今野がきつく抱きしめてきた。

環は黙って微笑む。


「大丈夫ですから」

「戻ってくるのが遅ければ、コルヌイエホテルじゅうに迷子まいごの館内放送をかけてもらうからね」

「まあ」


そう言って環は笑った。ほんとうに、この人は場を明るくしてくれる人だと思う。

環は、環のためにせいいっぱいの言葉と体温を差し出してくれる人を大切にすべきだ。

まずは今野から。

それがきっと、松ヶ峰紀沙まつがみね きさへの恩返しになるだろう。

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