第十二話 親友のキスの味

さとしは運転に意識を戻しながら、語気あらく音也おとやに向かって言い返した。


「女のスキャンダルなんか、ねえよ」


音也は満足げにうなずき


「選挙が終わるまでは絶対に”ノースキャンダル”で通せよ、聡。セックスがらみは揉み消すのに金がかかるし、最近は画像をばらまかれる危険性がある。裸のおまえが女と一緒にいる写真なんかが出たら、一発でおしまいだ」

「女となんか、寝ていねえよ!だいたい、選挙に出るんなら女は厳禁だってお前がそう言うから、一年も前から禁欲中だ」


よし、と音也が笑っていった。


「その調子で選挙が終わるまでは女断おんなだちを続けてくれ。いいか、おれの眼の前ではオンナは絶対にだめだ。ほしければ、そう言ってくれ」

「何を?」

「女だ」

「―――ほしい、と言ったらどうなるんだ。まさかまた、女の代わりにお前がキスするんじゃないだろうな」


聡が言い返すと、音也は笑い飛ばした。


「おれじゃないよ。どこかから、口の堅いを調達してきてやる。プロで我慢しろってことだ」

「プロなんか、いらねえよ」


それきり、ふたりとも聡の叔父の屋敷がある本郷に着くまで、口も開かなかった。

だが松ヶ峰聡の唇の上には、親友のキスの味が残っている。

音也の香りが、体温が、柔らかさが残っている。

死んだって、忘れたくない。



★★★

本郷の叔父の家は、松ヶ峰聡がいつ尋ねても、ちりひとつ落ちていない。

子供のころの記憶でも、この家の廊下は顔がうつりこむほど磨いてあって気をつけていないと聡はどこまでもすべって行きそうで、怖かったものだ。

そして医家らしく、いつもほのかに消毒用のアルコールの匂いがした。


聡が秘書の音也を連れていくと、叔父は庭に面した部屋で聡たちを待っていた。

十五畳を超す部屋に、百六十センチにも足りない叔父が一人でちんまりとすわっているのを見ると、それだけで聡は噴き出しそうになった。

茶色のポロシャツに、チノパンツ。

禿頭にはなぜか、柔らかいキッドの丸帽子がのっている。


茶菓の用意がしてある。叔父は血糖値が高いくせに甘いものに目がない。

医者の不養生とはよく言ったもんだ、と聡はすばやくテーブルに置かれた茶菓に目をやって考えた。

聡は神妙な顔つきで叔父の前に座り、音也は少し下がって座布団のない畳の上にじかに座った。

小柄な叔父が口をひらいた。


「少しは、うちうちも落ち着いたかいの」


聡は頭を下げた。後ろの音也の気配が背中に痛い。とっとと挨拶をしろというのだろう。

しかたなく、聡が口を開く。


「叔父さんには、母の通夜つやから本葬ほんそうまで何もかもお世話になりました。ありがとうございました」


ぺこりと聡が頭を下げると、叔父は、うう、とうなるような声をあげた。

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