第八十二話 この唇だけが

DVDを見るのなら、松ヶ峰邸まつがみねていには何カ所かテレビを置いた部屋がある。玄関横のさとしの選挙事務所にもテレビセットがあったはずだ。

しかし環は結局、今野こんのを二階にある家族用のリビングへ連れてゆくことにした。あそこならテレビがあるし、ソファもある。

なによりも家族用リビングは、広すぎる松ヶ峰邸で環が安心していられる数少ない場所だからだ。


二階に行くにあたり、今野は再び足首を痛めている環を抱え上げようとした。

しかし今度こそ、環ははっきりと抵抗した。


「あの、上がれます。自分で上がれますから」


すると今野はムッとした顔で


「上がれねえよ。それに」

「それに?」

「昨夜は、聡さんに抱えてもらってたじゃねえか」


ぼそっと、声のトーンを落として今野はつぶやいた。


「だってサト兄さんは家族ですし」


環ちゃん、と今野ははっきりととがった声を出した。


「家族って言っても、聡さんとは血がつながってないじゃないか」

「でも、家族です」


環が半泣きになってそう言うと、今野は無言で環を抱き上げ、ふう、とため息をついた。


「たとえ聡さんが君の本物の兄貴でもね、俺は、嫉妬するぜ」

「―――は?」


今野はもう環の言葉に返事もしないで、かるがると環を抱き上げたまま巨大な階段をあがっていった。


「それにしても、信じらんないね。ほんとにこんな家が日本にあるわけ?映画のセットみたいだ」

「古い家なんです。大正時代に建てられて―――あの、今野さん」

「なに」

「階段を上がった、ふたつめの部屋で降ろしてもらえますか」

「なんで?テレビセットは二階の奥のあるんだろ?」


その、と環は言いよどんだ。恥ずかしさのあまり、次第に全身が真っ赤になってくるのがわかる。

世の中の女性は、みんなこういうことが普通なのだろうか。

だとしたら男女交際の経験を積めば、いつか環も恥ずかしく感じなくなるのだろうか。


わからない、と思った。

ただ少しだけ今野の腕の中で身体をよじり


「その、いろいろと、自分の部屋で用事が―――」

「ようじ?何の…ああ、トイレ?」

「そういう…感じです」


環が小さな声でそう言うと、今野も小声で笑って環を寄せ木細工の廊下におろした。


「立てる?」

「だいじょうぶです」

「じゃあさ、”用事”を済ませてきてよ。俺はさっきのキッチンでコーヒーを入れてくるから。勝手に歩いちゃ駄目だぜ、部屋の前で待ってて」

「歩けます」


とさすがに環が少し怒っていうと、今野はくすりと笑った。


「ちがうよ、一人じゃあ俺が迷子になりそうってこと。こんなバカでかい家は見たことがねえからさ」


それから、トントンと軽快な音を立てて今野は一階に降りていった。

環はため息をついて、足を引きずりつつ部屋に入った。自室の洗面所でトイレを済ませて鏡を見る。

そこにはまだ顔を赤らめた、見栄みばえのしない太った藤島環ふじしまたまきがそこにいた。


「何が起きているのか、全然わからない」


環はそうつぶやいてから手を伸ばし、鏡に映る自分の唇をなぞった。

この唇は、今野哲史こんのてつしに知られている。

この唇だけが。


それで十分だと環は思った。

今野の柔らかい唇の記憶で、環はきっとこの先も一人でやっていける。

聡に頼らず、できれば紀沙きさの残した金にも手を付けずに一人で生きていきたい。

それが今の藤島環の願いなのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る