第百五十六話 生まれてきてくれて、本当にありがとう

藤島環ふじしまたまきは初めて会った父親に涙をぬぐわれながら、驚いたように目を見開いた。


「えっ?私のれ、ですか?」

「ああ。ホテルの入り口から、すごい勢いでこちらへ向かって歩いてくる若い男がいる。誰かを探しているみたいだ」

「あっ」


環は後ろをふりかえり、今野の背の高い姿を認めた。

まだこちらには気づいていないようだが、すさまじい速さで日本庭園を横切ってくるのですぐに環を見つけるだろう。

城見龍里しろみりゅうりは少し困ったように鼻のわきを掻いた。


「おれは彼と会わないほうがいいだろうね」

「あ…たぶん、まだ」

「”まだ”と言うことは、いつか会わなくちゃいけないのか。父親としては気が進まないな」


そう言って城見は笑い、娘のふっくらした顔を見おろした。


「一度だけ、抱きしめてもいいかな環」

「あ、はい」


環がそう言うと、城見はふわっと小さな柔らかい環の身体を抱きしめた。

低い父親の声が、環の耳元で聞こえる。


「ありがとう。生まれてきてくれて、本当にありがとう。君はおれの誇りだ、環」


どっと環の中に温かいものが流れ込んできた。

城見は五秒ほど環を抱きしめていたが、やがてしぶしぶ手を放すと、またジャケットをぱたぱた叩き始めた。


「どこかのポケットに入れておいたんだが―――ああ、これだ」


城見は小さく折りたたんだメモを環に手わたした。


「連絡してくれ。この番号はおれへの直通なんだ。君のほかには北方きたかたしか知らない。

紀沙きさまんいちのことがあった時だけ、北方が使うと決めてあった番号なんだ。北方はもう二度とおれに連絡をして来ないから、君がかけてくれ」

「いいんですか、あの」

「いいんだ。時間はいつでもいい。この電話は二十四時間いつでも必ずとるから―――ああ、彼がきみを見つけたみたいだ。すごい勢いで走ってくるよ」


そういうと城見はかろやかに背を向けて歩きだした。環があわてて叫ぶ。


「あの、このぎょくは?これがなければ映画を撮影するときに困るんじゃありませんか?」


環の声を聴いて、城見はあざやかに笑った。

心の底から、幸せそうに笑った。


「いや、おれはもういらない。おれはおれの娘を取り戻したから。”白玉環はくぎょくかん”は君のものだ。君の父親も、君のものだよ環」


ひらりとたけの長いジャケットの裾をひるがえし、藤島環ふじしまたまきの父親は去っていった。

父親の左手首には環の母が大切にしていたロレックスがはまっていた。

そこが。

遠い日からずっと、約束されていた場所のように。

フェイスの大きな時計は城見龍里の左手首で正確に動いていた。


そして環の手の中には、白い玉がある。

父親の伝えきれなかった愛情が形になったような白い玉が、環とともに呼吸をしていた。


コルヌイエホテルの日本庭園では、しずかに夏の初めの陽光が消えていった。

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