第百六十話 龍を乗りこなす花

「予行練習です。なんでもリハーサルが大事でしょう?」


藤島環ふじしまたまきは笑いながら泣いた。その手に、今野こんのがそっと白いぎょくのペンダントヘッドをすべりこませてくる。


「こいつに彫り込まれている龍は俺だと思ってよ、環ちゃん。俺は君を守ってゆく龍だ。そして君は、龍を乗りこなす花なんだ。世界でひとつだけの花だぜ―――俺の嫁だ」


そういうと今野は立ち上がり、環の頬を右手で包み込んだ。環がその手の体温を温かく感じ取っていると、今野がテーブルごしに身を乗り出してきて環にそっとキスをした。

環の中ですべての音が消えていく。同時にすべての音が明確な温度をもって息づいているようだった。


今野の唇が離れる。

環が目を開けると、今野が照れくさそうに笑った。


あゆとキスで、バラとシャンパンの代わりになった?」


ふふふ、と環は笑った。


「鮎とキスのほうがうれしかったです。でもバラとシャンパンも悪くないですよね」

よくばりだね、女の子は。いいぜ、めしが済んだらバラとシャンパンだ。っていうかさ」


と今野は椅子に座り直してから、そっとあたりをうかがった。


「早くデザートにならねえかな。俺、カラダがもちそうにねえんだけど」

「カラダ?お腹が痛いんですか」

「腹じゃねえよ。もうちょっと下」

「え?…は?」


環が目を丸くしていると、今野がじっと環の顔に視線を据えて低い声でささやいてきた。


「やべえ、たちそう」

「ちょっ…待てないんですか、今野さん」

「こういう時の男は一秒だって待てないよ。あー、こうやってひそひそしゃべるのが一番る。なんか君にしゃぶられてるみてえだ」

「…そんなことっ、したことありませんよ」

「俺はしてみたいけどなあ」

「なにを」


環が聞いても、もう今野は何も言わずににやりと笑ってみせただけだ。

そこへ有能なコルヌイエホテルのレストランスタッフの手によって次の皿が運ばれてきた。半透明になるまで炊きあげた冬瓜とうがんの上に、カニ身を散らした卵白らんぱくあんをけた品だ。

今野がスタッフに話しかける。


「どれもこれも、とてもおいしいです。この後は、何が出ます?」

「お食事として蕎麦そばと、デザートのフルーツをお出しする予定ですが」

「蕎麦をやめてフルーツだけにしてもらえませんか。申しわけないんですけど、がもうお腹いっぱいみたいで」


今野が嬉しそうにそう言うと、何もかもを心得こころえたような顔をした男性スタッフはにこやかに環に尋ねてきた。


「さようですか。奥さまもそれでよろしいでしょうか」


はい、と環はのどになにかが詰まったような声で答えた。


「はい…主人の言うように、してください」


高級ホテルのスタッフが静かに歩いて行ってしまうと、今野は環の目の前で、さっそく冬瓜にはしをつけながら笑った。


「上手じゃん、リハーサルはもういらないんじゃないの、環ちゃん」

「まだ練習がいります」

「女の子はじらすのがうまいねえ」


そう言うと今野はパクリと冬瓜を食べ、まじまじとうつわの中を見つめた。


「これ、うまい。やっぱり良いホテルの良いめし屋は仕事がていねいだな」


急に人が変わったような顔つきになって冬瓜とうがんをためつすがめつする今野を見るうちに、環は身体じゅうが温かいものでいっぱいになるのを感じた。


このひとを永遠に愛していくとは、環にも約束できない。

しかし今この瞬間、藤島環がと思う男は今野ただ一人だ。

この男と共に生きていく。その環の覚悟を、白玉環はくぎょくかんが静かに吸い取っていった。


ひくんと、花を抱く龍のびれが藤島環の小さな手の中で跳ねたようだ。

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