「何もない、静かな部屋」

水ぎわ

プロローグ 「最愛の秘書」

規則正しい呼吸音が、耳元で聞こえている。

甘やかなひそやかな音は耳から入って全身をうるおし、皮膚を経由して部屋の中に満ちていく。

松ヶ峰聡まつがみね さとしは温かい闇にくるまって静かに恋人の呼吸音を数えている。このまま、世界ごと消えてしまってもいいと思うほどにおだやかな時間。

やがて呼吸音が近づき、愛しいひとの声が聡の耳に聞こえる。


「起きろ、聡。時間だ」


聡はしぶしぶ目を開く。

目の前には、百八十四センチのほっそりした身体をシャツとデニムに包んだ親友が立っている。

楠音也くすのき おとや

聡にとっては高校時代から十年もつきあってきた親友だ。


聡は音也の言葉に逆らってもう一度目を閉じるが、今度は乱暴に耳をつねりあげられた。


「いてててっ、痛えな」

「聡。もう飯を食っている時間はないぞ、喪服を着て支度しろ」


そう言い捨てると音也はワックスで手入れされた床を音もなく歩いて、部屋を出ていってしまった。

聡の恋は、その瞬間に雲散霧消する。


音也は仕事上のパートナー。

松ヶ峰聡を衆議院議員に当選させるために、東京から生まれ故郷の名古屋に戻ってきた「議員候補者の秘書」である。

そして松ヶ峰聡はこれから、無数にいるように思える親族と支援者に気を使いながら、突然死んだ母親の葬儀で喪主をつとめねばならない。

最愛の「秘書」を連れて。


それが最悪な点だ、と松ヶ峰聡はのろのろと自宅の巨大なベッドから起き上がりながらそう思った。

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