第百六話 男の愛情が自分を守ってくれることを知っている、無垢で狡猾な少女の顔つき

★★★

環が口にした意外な名前に、思わず今野こんのの動きが止まった。たまきは微笑んで


「ええ。一社いっしゃ紀沙きさおばさまのアトリエにあったものです。サト兄さんが見つけたんです」

「でも…でも、これは男ものの時計だぜ?なんだって、紀沙奥きさおくさんのアトリエに男物の腕時計なんかがあったんだ」

「持ち主は、よくわからないんです」


環がかぶりを振るスキをついて、今野はすばやく片手を台形スカートの奥に差し込んだ。

環は必死になって逆らおうと脚を閉じた。しかし閉じたことで今野の大きな手をしっかりと足のあいだに挟み込むことになり、今野はその温かさにうっとりした。


「くそ、無理やりになんかできねえよ」


今野は環の体温を手で感じながら、ため息をつく。顔を上げて、目の前の環を見た。

環はおびえているが、最後のところで今野が折れることを知っている、と言う顔つきをしていた。

男の愛情が、自分を守ってくれることを知っている無垢むく狡猾こうかつな少女の顔つきだ。


「ずるいな環ちゃん」

「何がです?」

「何でもねえよ。じゃあ、この時計は持ち主不明ってこと?」


今野はそれでも環の脚のあいだに挟み込んだ手をそのままにして、もう一方の手を清潔なベッドシーツの上でのばして、大ぶりの腕時計を取った。

そのまま環の太ももから手をはずさずに、まじまじと時計を見る。


「これ…見おぼえがあるな」

「えっ?」


環が驚いた声を出す。今野は環の胸に手を乗せ、ちょっと黙って、と言うそぶりをした。

利口りこうな環はすぐに口を閉じた。

環が黙ると、彼女の鼓動が手のひらしに今野に伝わる。

この子は心臓の音さえも可愛いな、と思った。


そのまま環の鼓動を皮膚で味わいつつ、今野は目の前の時計を子細しさいに眺め、うん、と言った。


「これ、ジェームス・ボンドの時計だ」

「ジェームスボンド?」


予想外の答えに、環はあっけにとられたようにつぶやいた。今野はじっくりと腕時計のフェイス、大きなリューズ、金属製のバンドを眺めて、断定的に言った。


「まちがいねえな。こいつはロレックスのサブマリーナ、Ref.6538。初代ジェームス・ボンドが”ドクター・ノオ”でけていたやつだ」

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