第百八話 「かしま・しろう」

今野こんのはたまらず、松ヶ峰家まつがみねけの巨大なベッドに藤島環ふじしまたまきを押し倒した。環の柔らかい身体を強く抱きしめ、こめかみに軽くキスをする。

環からは、いい匂いがした。

植物性の油のような清涼感のある香り。

不埒ふらちな男の欲情をあおりつつ、じょうずにコントロールしてくれる匂いだ。


「”哲史てつしさん”っつうの。なんか、無性むしょうにエロいよ。ねえ、もう一回いって」

「…いやです、恥ずかしい。あの、Kが苗字みょうじのひとは今野さん以外にもまだいるんですよ、ほら、御稲みしね先生も”北方きたかた”だからKです」


と環は、亡き松ヶ峰紀沙まつがみね きさの親友・北方御稲きたかた みしねの名をあげた。

しかしこれも”みしね”でMだから、イニシャルを逆にしてもK・Sとは合致しない。

今野と環はしばらくあれこれと考えてみたが、やはり紀沙と松ヶ峰家の周辺でK・Sのイニシャルを持っている人間はいなかった。


「あきらめなよ、環ちゃん」


今野は環の身体の上に軽く乗り、柔らかい胸のあいだに顔を乗せて言った。


「逆イニシャルだとしてもK・Sなんていないし、名前がKの人もいねえもん。あ、一人いたわ。絶対にこの時計が似合わねえ人が」

「どなたです?」


環が尋ねる。今野はニヤリとして


「けんきち・よこい。俺のボス」

「あ、横井先生…ううん、ダメです。横井はYですね」

「まあ、このイニシャルから持ち主を割り出すのはあきらめたほうがいいよ。しかし、なにかが引っかかるな…横井よこい先生、Kのイニシャル…あのおっかねえ北方きたかた先生…音也おとやのアニキ…。

ま、そんなことよりもさ、環ちゃん…」

「…やだ…今野さん、まって」

「さっきの“哲史てつしさん”ってのが、すげえエロかったんだよ。もうちょっと…さわりたい」


今野の指が、環のスカートの中をためらいもなく進み、環の柔らかいところにふれるまであと数センチと言うタイミングで、ぴかり、と今野の頭にひらめいた名前があった。


「かしま・しろう」

「ん…っあ…え?なんですか」

「”かしま・しろう”だよ。ほら、逆イニシャルだけど、KとSだろ」

「ええ。どなたです?」


環の問いに、今野は一瞬ためらった。言ってもいいものかどうか、考えたのだろう。

やがて、静かに今野は口をひらいた。


鹿島史郎かしましろう。自由党の、鹿島幹事長のだよ。もう、何十年も前に亡くなった人だ」

「なくなられた…?」

「事故死だって聞いたよ。しかしちょっとあやしい部分もあって、警察が調べたとか聞いたな」

「怪しい部分、ですか」

「うん。司法解剖の結果で、運転前に多量の睡眠導入剤を飲んでいた形跡があったんだ。自殺の可能性も高かったんだが、結局は事故で済ませたらしいよ。

何十年も昔の話だけれど、そのころの鹿島幹事長はもう自由党の若手議員のリーダーだったから、家族がらみのスキャンダルは欲しくなかったんだろう」

「くわしいですね、今野さん」


環がいぶかしげにきいた。

その質問のタイミングの良さに、今野は黙ってうなずいた。この女の子は柔らかくて温かいだけじゃない、と今野は改めて思った。

藤島環ふじしまたまきは意外と頭が切れる。

これを覚えておかないと今後は困った事になるだろうな、と今野は意識のすみで考えた。


「最近、調べたんだよ」

「しらべた?その、亡くなられた鹿島幹事長の弟さんについてですか」


今野は環の脚のあいだからしぶしぶ手を抜き、じっとその丸い顔を眺めてからゆっくりと言った。


「鹿島史郎さんは、北方先生の昔の恋人だったんだ」

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