第101歩: 新聞あげるから帰りなさい
シェマが悲鳴をあげた。
「や! ちょっと、やだ! ハリハリムシなんて持ってこないでよ!」
一つだけ魔力燈の灯る事務所、彼女の席。
アルルには思いがけない反応だった。
「だってこいつら、うまく使えば縫い物とかやってくれるんだろ? 要るかなと思って」
「そうだけど……そいつら嫌いなのよ。細いし、うねうね、するし……」
初めて聞く話だった。
カップの中のハリハリムシは硬直して、もう普通の針と見分けがつかないのに、それもダメなのか。
「でもシェマ、クロサァリでイカ喰ってなかったか?」
あそこの近海で小ぶりのイカがよく獲れる。
「あれは調理済みだし、頭があるもの」
「釣ったあと、脚だけ切り落とすと」
「やめてよ」
眉根を寄せて学院の先輩がそっぽをむいたところに、思いついたとばかりに黒猫が足元で声をあげた。
「
「やめてカケス使えなくなるから!」
ほぼ無人の事務室にシェマの声が響く。
「お二方、あまりあるじをいじめないでやってくれぬか?」
シェマの膝からケトの声。
「あるじは
あるじが使い魔を放り投げた。重そうだった。
「何をするあるじ」
「こっちの台詞よ」
使い魔に言い捨て、蜂蜜色の瞳が冷ややかにアルルを見る。
「それで、どうするの、それ?」
「明日聞いてみて、誰ももらってくれなかったら……飼うか」
カップを振ると、チリチリ鳴る。
「もう勝手にして。さっさと日報書いちゃいなさいよ」
うんざりとシェマが言い、手元の、文字がびっしり並んだ紙を取った。
「それ、いま流行りの新聞ってやつか?」
「ええ。ロッキさんが読み終わったのをくれるの」
答えながらシェマが、くすんだ紙面を二つに折る。
ロッキ・アーペリ。協会ウ・ルー支部の正規雇だ。今日の外回り先もロッキから割り振られたものだし、支給されたもろもろの物や、一日の仕事の流れをざっと説明してくれたのも彼だった。
日報もその一つ。訪問先と顛末を簡単にまとめておく。完了した依頼があれば、依頼書に完了の署名を入れる。
アルルは自席に向かった。マヌーの座る六人机の一つ。ロッキの斜向かいがそうだ。
席につき、
ロッキに貸してもらった過去の日報を参照にしつつ、まずは一つ目。
六区 海蛍通り二五番 ウスカトン夫人
夫の浮気性に魔法や「不思議なものたち」との関わりは無し。愛人とされた女性についても同様。調査終了。
この一つ目の訪問先についてロッキが言ったことには
「たまにこういうのがありますよ。強くゴネられると受付の二人で断りきれないこともあるのでね。運が悪かったと思って、先方の気が済むまで話を聞いてきてください」
絶対に魔法か何かのせいだ、と思いたい夫人と、この世の終わりみたいな顔の旦那と、愛人扱いされた女性との言い争いは、夫人の誤解が発覚して決着した。
泥沼化しなかったのはむしろ強運と言っていい。
「アルル、お腹すいたよ」
「俺も。これ書いたら帰るから、もう少し待っててくれ」
二つ目。
七区 シンマアア小路三六五番 オンペル縫製
従業員の怪我の原因はハリハリムシ。二十二匹を捕獲。針山は焼却。対応方法を伝え、虫除け一束を銀貨二枚で販売した。
──これでいいのかな。
依頼書にも署名を入れ終えたところで、事務所の柱時計が八つ鳴るのが聞こえた。もう夜も夜だ。
さて、書いたはいいものの、この紙はどうすればいいのだっけ。
聞ける相手は、一人しかいない。
「明日の朝出せば大丈夫だけど、私のと一緒に支部長に渡しておく?」
新聞から目を離してシェマがそう言ったので、アルルは手にした書類を渡しかけて、気がついた。
「シェマはまだ帰らないのか?」
特にやることが残っているようにも思えないのだ。
「支部長に用事があるのよ。ライリ・マーラウス海送の社長と会食って言ってたから、もうしばらくしたら戻るんじゃないかな」
その右手がケトの背中をなでている。さっき放り投げておいて、結局また膝の上に戻したらしい。
まだ夜は冷えるしなと勝手に結論づけて、アルルは無人の席から椅子を引く。
「ライリ・マーラウスって、聞いたことあるな」
「そりゃそうよ、だって海竜船の……なにしてるの?」
腰掛けたところに問いが飛ぶ。
「だって、遅くなるだろ?」
お腹へった、と足元から不満の声が聞こえる。
シェマは声の主をちらりとみて顔をあげ、諭すような顔で笑った。
「きみの相棒もああ言ってる。私に気を使わなくていいから、帰りなさいよ」
「でもさあ」
青年の脳裏によぎる出来事がある。
「大丈夫よ。はい、魔法使い」
娘は自らを指差して目を細めた。
「それに、今はケトがいるもの。なんだかんだ、頼りになるのよこいつ。ほら、新聞あげるから帰りなさい」
ケトがぐふふ、と低く笑う。
四つ折りになった二枚重ねの紙を差し出されて、アルルは思わず苦笑いした。
「なんだよその『飴玉あげるから』みたいの」
新聞を受け取って立ち上がる。
「アルルー、置いてくぞー」
ヨゾラが急かしてきた。
確かに疲れているし、明日は朝からだ。今日は帰ろう。
そういう気持ちになった。
「じゃあ、また明日な」
「ええ、また。ヨゾラさんもまた明日」
「ん、うん、また明日……ケトきょー、またね」
「うむ。気をつけるのだぞ」
日報を手渡して椅子を戻し、アルルはもう一つ聞きたいことを思い出した。
「シェマ、三日月サルーンって」
「かーえーるー」
黒猫のうんざりした声。
シェマはちょっと驚いたように目を見開いていたが
「知ってるわ。でも明日」
ぴしゃりと言った。
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