第73歩: ま、いいだろ

 ペブルが鉛筆を走らせている。

 壁に吊された網袋が揺れて、中の芋や玉ねぎがふいに動きだす。次いで戸棚が開き、木皿や鹿角の食器類が宙を行く。

「誰っ?」

 と黒猫が声を上げ、それに父の声が続く。

「カランカさんいらっしゃい」

 幼い頃から見慣れた光景、そういえば今日は土曜日ティエハだった。

 調理部屋に続く扉が勝手に閉まり、扉の向こうで人や物があれこれと動く音が立つ。


「今のヒト? アルルのお母さん?」

 ヨゾラが首だけでこちらを振り返っていた。

「いいや、今のはカランカさん。土曜日にうちに来て、料理を作ってくれるだよ。……見えないけど」

 ペブルがさらに付け足す。

「他の日にもたまに来てくれるがよ。あー、ヨゾラちゃん、こっち向いてくれ。後ちょっとでおしまいだ」

 言って、向こうの椅子で鉛筆を振っている。

「なんだ、アルルのお母さんかと思った」

 ペブルに向き直ったヨゾラにヴヴっ、ヴぅぅぅん! とホップが激しくノドを鳴らした。あれが咳払いの代わりなのだ。

「猫!」

「なんなのさー、蛙ぅ」

 ヨゾラが不満の声を上げる。猫と蛙でいまいち気が合っていない。

「俺、別に気にしてないよホップ。でもヨゾラ、ちょうどいいからお前にも話しとく。そのまんま聞いてくれ」

「へーい」

 この返事にホップがまた喉を鳴らした。ヨゾラがそれを一瞥した。アルルは構わず話を続ける。

「俺、赤ん坊のころに拾われてさ。ずっと親父とホップとで暮らしてるんだ」

「……ヒトの子どもも落ちてるの?」

 そうきたか。

「まぁ、落ちてるっちゃあ、たまに落ちてんなぁ」

 と言ったのは父親だ。鉛筆も画板もテーブルに置き、まぶたの上から目玉をぐりぐり押さえている。

「アル坊は、オレが仕事で中部諸国を下ってた頃に拾った子でよ。よく泣くわ病気はするわ悪戯するわでそりゃ大変だったが、ま、なんだかんだ二十年ほど家族をやってる」

「病気は俺のせいじゃない」

「わーったよ。まアレだ。オレが嫁さんもらってりゃアル坊にも母ちゃんがいたんだろうがな。こいつに出会った時にゃオレもいい感じにオッサンでよ。だもんで、ウチに母ちゃんはいない」


 いて言えば、とアルルは思う。

 強いて言えば、ホップがうちの母ちゃんだな。

 掃除をしろだの、食べ方が汚いだの、危ない事はするなだの、どちらかと言えばホップにお説教された事の方が多かった。

 父が今度は頭の両脇を指でぐいぐい押している。

「そのかわり、ってワケでもねえが、ウチにゃいろんな連中が出入りすんだ。今来てるカランカさんとかな」

 そして、テーブルから画板を取ってヨゾラに見せた。

「で、今回はおさんだ」



 アルルは大騒ぎになると思っていた。

 父の絵はわかりやすい。じっと見て、特徴を捉え、丁寧に描く。そうやって、様々なの姿や性質を教えてくれた。

 さっきちらりと見たヨゾラの絵もそうだった。箱座りのヨゾラが、正面から見上げる構図になっていた。黒の濃淡で小さな鼻や、頭のわりに大きな耳や、細かなヒゲを描き出していた。

 だから、ヨゾラはきっと驚いて騒ぐと思っていたのだ。

 しかし、予想に反して、ヨゾラはとても静かに絵を覗き込んで、しばらく動かなかった。

「あたし」

 ようやく一言。

 また一言。

「あたし?」

「そうだぜ、よく描けてんだろ?」

 ペブルの言葉にヨゾラが顔を上げた。ゆるく開いた口許をと動かして、ぽつぽつしゃべりだした。

「すごく……なんだろう……胸がぐるぐるする。あたし、この猫と遊びたい。ごろごろ転がって、ちょっと噛んだりしてみたい。なんだろう、なんていうの、こういうの?」

「えっと……」

 遠慮がちにアルルは言った。

「かわいい、じゃないかな」

「かわいい? これもかわいいって言うの!? そっか、かわいいのかこの猫!」

 ペブルの持つ絵に向かって大きな声をだした。

「これ、おさんだぞ?」

 絵描きの言葉にヨゾラがぱっとアルルを振り向く。顔に「ほんと!?」と書いてあった。魔力燈に瞳がきらめいていた。

 アルルが軽く頷くと、ヨゾラがペブルに飛びついた。肩にしがみついて、落ちないように後ろ足をばたつかせながら、鼻先を首へ擦り付けている。

 んー、んー、とか言っている。

「おいおい、くすぐってぇって」

 白髪の魔法使いは満更でもなさそうだ。

 アルルはと言えば、少しだけ、ヨゾラを父親にとられたような気分になる。

 父の膝元で蛙があきらめたように

「まぁ良いでしょう」

 とこぼした。

 奇しくもアルルと同じ気持ちだった。

 ま、いいだろ。

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