第162歩: ブラシ

 小ぶりでのないブラシが、お腹の上をなぜていく。アルルの左手が頭の下に添えられている。

 黒い瞳がじっと手元を見て、その手はブラシをおっかなびっくり動かしている。お腹の毛が整列するのを眺めながら、ヨゾラはぼんやり昼間の事を思い返した。



「にャア」

「ほう」


 ケトが感心したように声を上げる。

「へっへー。ちゃんと練習してるんだぜ? ねね、ケトきょー。乗っかっていい?」

 宿舎を出て少し歩き、殿でんおおに入った。左に折れて、目指すのはガザミいち

「良かろう。飛び乗りたまえ」

 歩調を変えないケトを狙って、ヨゾラはめいっぱいに跳ぶ。

「わ」

 その高さにしっぽ髪が驚いて身を引く。

 ぐんぐん近づく王族ネコの背中に、お腹からと着地した。柔らかすぎず、固すぎず、クセになりそうな弾力だ。

「もっかいやっていい?」

「かまわぬ。存分に楽しみ給え」

「どうしたのケト、優しいじゃない」

「ま、異種との交流も王族の勤めであるからして」

 のしのし歩く大猫の背から滑り降りて、ヨゾラはもう一度跳ぶ。

 十二回ぐらいやって満足したあたりで、シェマの短靴が妃殿下大路から外れた。


「しかしよく飽きぬものであるな」

「だって、ケトきょーの背中きもちいいよ。おっこちた時にいうの面白いんだ」

 目の前の耳へ言う。こうしてる間にも、ケトの耳は細かく動いてあたりを伺っている。

「ケトの毛並みは抜群よね。さすが王族だと思うわ」

「ぐふ、ぐふぐふぐふ」

「だけどその笑い方はいや

「しっぽ髪さぁ、ケトきょーにすぐそういうこと言うけどさぁ、ケトきょーの事好きだよね?」

「そっ……」

 しっぽ髪が目をそらし、口をとがらせて首の周りを手でさする。

「それは、まあ……そうだけど」

「ぐふぐふぐふ」

「でも、その笑い方はいや

 しっぽ髪も、そこは譲らないらしかった。


 大小のしゃべる猫が重なって道を行けば、人の目を引く。声をかけられる事は多かった。ただ、猫目当ての人よりシェマ目当ての人の方が多かった。

 気分のいい話ばかりじゃなかった。ヨゾラから見ても「なんだこいつ」という人もいた。そういうのを適当にあしらい、すり抜けてシェマが小路を進んでいく。

 あんまり器用にすり抜けていくので「すごいね」と言ったら、ちらり得意げな視線をよこして「猫はすり抜ける」とか言った。


「キミも猫じゃないくせに」

「そう? 私も名前だけなら、猫の一種かもよ」

「え? キミ、ヒトの形の猫だったりするの?」

 シェマが目を丸くしてから、微笑んだ。

「さすがにそれはないけど、遥か東の国の言葉でね、『シェマ』って猫を意味するらしいの。その国では猫は太陽の娘とされていたんですって」

「おひさまの? 猫が? ピンとこないや」

「実は私も。でも良い名前よ。すぐに覚えてもらえるわ」

「なんで?」

「珍しいから。なんなら『クァタ』も猫の神さまに関係してるそうよ」

「猫だらけじゃん」

「にゃあ」

 とシェマが鳴き真似をしてみせる。

 たあいもない話。


 海が静かになって、船が出るようになって、街のそわそわした雰囲気もだんだんに薄れていっている。でもこうして海へ近づけば、道の端に寄せられたままの泥の山や瓦礫、修理の終わっていない壁、塀に残る染み、そういうものが普通にある。

 街の路地裏や軒先で寝泊まりしていた人たちも、少しずつ減り始めてはいる。どこに行ったのかヨゾラは知らない。

 それでも、まだたくさんの人がそこから出られずにいる。



「ヨゾラさんは、どんなブラシがいい?」

 ふいに振られた話は、答えるのが難しかった。

「わかんないや。気持ちいいのがいいけど、やったことないもん」


 こんなふうにしっぽ髪と話すのは初めてだった。会えば胸がざわざわすることが多かったのに、なんでだろう。

 いつもと違う組み合わせが珍しくて、なんだか楽しくなっているから、というのもある。

 ケトが遊んでくれてうれしい、というのもある。

 だけれど、それだけではないような気がして、ああそうか、とヨゾラは思う。

 この一週間、普通だからだ。

 今日部屋に来たときも、日曜日にアルルのジャケットを洗濯しに来た時も、普通だったのだ。

 しっぽ髪も、アルルも、どっちも。


 前なら、アルルはすごく優しい顔して、しっぽ髪はころころ表情を変えて、二人だけで楽しそうにしたのに、ここの所はそれがない。まるでロッキや支部長にするみたいな普通の挨拶をして、ちょろっと話をするだけだ。まるで二人が半歩ずつ下がったような距離がある。

 それでか。

 欲しいのに手に入らないもの、それを見ずにすんでいるから。

 そうか。

 いいのかな。

 ふと思った。


 ガザミいちに入る時、しっぽ髪は目を閉じて、額、胸元と触れて胸元に小さく輪を描いた。前に一度、フラビーが同じことをやっていた。

 マンジァさまの作法だ。


 ガザミ市は前よりずっと小さかったけれど、前向きな空気に満ちていた。

 買い物に来た人も、共用テーブルで遅めの昼ごはんを食べる人も、壊れた屋台を直すために槌を振るう人もいた。


 ブラシはケトが選んでくれた。柔らかい豚毛の、たまご型の、がないブラシ。

「毛の具合よし。ヨゾラ君の体格ならば、これぐらいの大きさが良かろうよ」

 木でできた赤みのある胴はつやつやで、前足で撫でた豚毛の触り心地がぞくぞくした。

 共用テーブルでブラシの匂いを嗅ぎ、毛の隙間をのぞき込み、自分の舌と比べてみる。これを、アルルが手に持って背中やお腹にかけてくれるところを想像したらした。

「気に入った?」

 シェマの問いかけに、ぶんぶんと頷いた。

「ありがとう!」

 素直にお礼が出てきた。

 いままでに見たシェマの顔で、いちばんいいのが返ってきた。

「良かった。そろそろ抜け毛の季節だもの、たくさんきれいにしてもらうといいわ」

 ふと、シェマが髪を縛る紐をほどく。しっぽ髪がはらりと背中に流れる。

「ちょっと借してね」

 とブラシを手に取り、胴の穴に紐を通して輪を作る。鮮やかな紫色の紐だった。

「──はい、できた。これなら咥えるのも、壁にぶら下げるのも簡単でしょ」

 輪に指を通してブラシを揺らし、少しさみしそうにしっぽ髪が笑って付け加える。

「アルルくんと、仲良くね」

「ありがと。でも──言われなくっても、仲いいよ。たまにちょっとケンカすることもあるし、キミに言われたことは忘れられないけど、あたしがアルル好きなのは変わんないよ」

「ええ。その気持ち、大事にするといいわ」

 なんだよ。

 なんだよしっぽ髪。

 キミだって、キミの気持ちは大事にしなくちゃいけないんじゃないのかよ。

「しっぽ髪、アルルと何かあっただろ?」

「なんにも」

 すぐに答えが返ってきた。前もって準備していたみたいに。ケトの鼻息が、このとき少しだけ大きかったように思う。

「なんにもなかったわ」

 その顔には微笑みしかなかった。他にはなんの表情もなかった。なにを言ってやろうかと考えていたら、からんころんと鐘が鳴った。




 鐘を合図に、あたりの喧騒が引き波のように消えていく。

 買い物をしていた人も、屋台の売り子も、市の修理に槌を振るっていた人も、誰もが手をとめ、口を閉じ、こうべを垂れた。

 土曜日ティエハ、午後の二刻と半。

 ガザミ市に沈黙が落ちる。




 黙祷のあとは、しっぽ髪とケトと、たあいのない話しかできなかった。

 アルルと何があったのか、結局聞けずじまいだった。

 話をすり抜けるのがうまいシェマは、明後日にこの街を出る。


「じゃ、私はフラビーさんに会いに行くから。またね」

 宿舎の通りへ入る所で、しっぽ髪がさらりと言った。




 ──小ぶりでのないブラシが、お腹の上をなぜていく。アルルの左手が頭の下に添えられている。

 黒い瞳がじっと手元を見て、その手はブラシをおっかなびっくり動かしている。


「痛かったりしないか?」

「ん、ときどき引っかかる」

「そか、わるい。けっこう難しいな」

「たまにだよ。気持ちいいよ」

「そか? 今日は悪かったな、一緒に行けなくて」

「仕方ないって。報告書っての書いとかないと、他の魔法使いがあたしを調べにくるんだろ? なんかいろいろ質問したりしてさ。あたし、そんなのヤだな」

 お腹を上にしているので、ヨゾラはアルルと向き合う形になる。アルルが自分のために手を動かしている。

 これ、いい。

 アルルがじっと見てる。その手が動くたび、ブラシの通ったところがぞわぞわして、じんわりと満足感が身体に染みこんでいく。

 この気持ちは何だろう。

 世界に自分と、この人だけがいるような気持ちになる。

 これ、いい。


 アルルが手を止めた。

「こんなもんか」

「やだ。もっと。アゴやってアゴ」

 腹ばいに戻ってアゴを突き出す。

 今は、しっぽ髪のことは考えたくない。

 そこからたっぷり、夕暮れが夜に変わるまでやってもらった。

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